【あの時の判断】川内村長・遠藤雄幸氏 「帰村」決断の苦悩 チェルノブイリ視察、決め手

2021/03/03 12:51

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震災の教訓を踏まえて、新たな村づくりへの思いを語る遠藤氏
震災の教訓を踏まえて、新たな村づくりへの思いを語る遠藤氏
会見で「帰村宣言」をし、思いを語る川内村の遠藤村長(右)=2012年1月31日
会見で「帰村宣言」をし、思いを語る川内村の遠藤村長(右)=2012年1月31日
原発事故で住民が強制移住となり、消えた168の村の名前を記した立て札。チェルノブイリ市内の中央広場に立てられている=2011年11月4日、ウクライナ
原発事故で住民が強制移住となり、消えた168の村の名前を記した立て札。チェルノブイリ市内の中央広場に立てられている=2011年11月4日、ウクライナ

 二〇一二(平成二十四)年一月三十一日、県庁の県政記者クラブで、川内村の遠藤雄幸村長は、大勢の報道陣に囲まれる中、村への思いを語り始めた。

 「スタートしなければゴールもない。試練を乗り越え、共に凜(りん)として、たおやかな安全な村をつくろう」-。東京電力福島第一原発事故で全村避難を余儀なくされ、二十八都道府県に避難している約三千人の村民に向かって、呼び掛けた。

 十年を振り返ったとき、帰村宣言の時が、精神的にも肉体的にも追い詰められていた。「(村民に)逃げろと指示を出すより、自分の家に戻るのが、どうしてこんなに難しいのかと、ずっと考えてきた」。当時の心境を思い起こす。

 いつ帰村宣言を出そうかと考えていた頃、腹部に痛みが走った。医療機関で受診すると、「十二指腸潰瘍」との診断を受けた。入院を勧められたが、「休む時間はない」と拒み、点滴を受け、薬を処方してもらった。

 住民懇談会を開き、「戻れる人は戻る。心配な人はもう少し様子を見てから戻る」の方針を説明した。放射性物質という目に見えないモノとの闘いは、さまざまないわれなき差別、住民間のあつれきを生んだ。村民の中には帰還に慎重な意見もあった。

     ◇     ◇

 村のトップとして古里に帰るかどうかの判断を迫られたとき、決断の決め手になったのは、二〇一一年十月末に福島大調査団に同行したチェルノブイリ視察だった。

 一九八六(昭和六十一)年に起きたチェルノブイリ原発事故の被災地、ウクライナ・キエフで避難を余儀なくされた住民と交流した。「自分の古里があるなら、戻れるなら戻った方が良い」と励まされた。原発近くの公園で、事故で消滅した自治体の名を記した墓標のようなモニュメントに衝撃を受けた。絶対に村を同じようにしないと誓った。

 長崎大の高村昇教授(東日本大震災・原子力災害伝承館館長)に村の土壌や水の環境を調査してもらったところ、放射線量が低かったことも帰還への思いを後押しした。

 村民の声も力になった。千葉県に避難した中学二年の女子生徒から手紙が届いた。「村長さん、都会はもうたくさん。早く川内に帰りたい。将来、看護師になって、子どもに村のスポーツ少年団でバレーをやらせたい。だから、早く戻してほしい」と記されていた。

     ◇     ◇

 小中一貫義務教育校「川内小中学園」の立ち上げ、子育て支援、高齢者の生きがいづくり、ワイン醸造やイチゴ栽培などの新たな産業づくり、工業団地への企業誘致…。帰村宣言からこれまで、村民の帰還を促し、生活環境を取り戻すため、前に進んできた。

 村の復興を支援する福島大の前川直哉特任准教授の言葉が心に刺さった。「原発事故による負の部分を全て払拭(ふっしょく)するのは不可能。もちろん、無くすために最大限の努力をしなければならない。残った課題に関しては、解決できるような人材を育んでいかねばならない」。若者に、村の誇りや生きがいを伝えていく覚悟を持った。

 二月一日現在の住民登録は避難者を含め二千五百十九人で、実際の居住人口は二千五十三人。六十五歳以上が九百七十九人と四割を超える。子どもを持つ若い世代の帰還促進が課題だ。

 つらく苦しい道のりだったが、問題にぶち当たったときは、新たな出会いがあり、助けられてきた。「自分たちは『生かされている』。生きていればなんとかなる」。自分自身に言い聞かせる。リーダーとして、村の進むべき未来を見据える。


■川内村の主な出来事

【2011年】

▼3月11日
 東日本大震災発生。川内村で震度6弱を観測
 川内村災害対策本部設置

▼3月12日
 富岡町民の避難受け入れ開始、一時6000人を超える
 川内村・富岡町合同災害対策本部設置
 東京電力福島第一原発1号機で水素爆発

▼3月14日
 川内村全域が屋内退避区域に設定
 東京電力福島第一原発3号機で水素爆発

▼3月15日
 川内村役場閉鎖

▼3月16日
 自主避難決定、避難先は郡山市のビッグパレットふくしま

▼4月12日
 川内村役場仮庁舎(ビッグパレットふくしま敷地内)で業務開始

▼5月10日
 住民54世帯92人が一時帰宅

▼6月3日
 川内村災害復興支援ビジョン策定委員会を開催

▼6月27日
 川内村役場庁舎に職員配置

▼8月31日
 郡山市のビッグパレットふくしまの避難所閉所式

▼9月13日
 定例会行政報告の中で、村が復旧計画を示す

▼9月30日
 緊急時避難準備区域解除

▼10月1日
 川内村仮設診療所開所

▼10月31日
 遠藤雄幸村長、チェルノブイリ視察

▼11月14日
 村内の公共施設で除染開始

▼11月20日
 川内村議選

【2012年】

▼1月14日
 帰村に向けた村民懇談会を開催

▼1月31日
 帰村宣言

▼2月3日
 各世帯へ村の復興と行政機能再開に向けた帰村の意向調査実施

▼3月26日
 役場機能、川内村で再開

▼3月30日
 ビッグパレットふくしまの川内村役場郡山出張所閉鎖

▼3月31日
 川内村災害対策本部解散
 川内村仮設診療所閉所
 川内小学校・中学校の郡山校閉鎖

▼4月1日
 かわうち保育園、小学校、中学校が川内村で再開

▼4月2日
 生活路線バス運行開始

▼4月22日
 川内村長選


10年を振り返って 村民の視点、大切に

 川内村の遠藤雄幸村長は震災と原発事故から十年を前に、福島民報社のインタビューに応じた。

 -これまでを振り返って今、何を思うか。

 「想像することがいかに大切か、身をもって感じる。そもそも十年前までは、原発事故は起きないものとして、想像すらしていなかった。未曽有の出来事を経験し、これからはあらゆる可能性を想定して、万が一のために備えていかなければならない。一方で、この間、いろんなご縁に恵まれてきた。困ってどうしようもない時、必ず誰かが手を差し伸べてくれたり、アドバイスを送ってくれたりした。改めて多くの方々に感謝したい」

 -判断を迫られた時、何を基準にしてきたか。

 「損得で判断しないという点を常に意識してきた。村民にとって何が良いのか、悪いのかという極めてシンプルな視点に立ってきた。損得で決めないというのは、自分の人間性が問われる部分がかなりあり、人間力を高めるための鍛錬が必要だ。そして、判断したことを行動に起こしていく。どういう結果であれ、開き直りせず、自分の責任を果たす」

 -どんな村づくりを進めるか。

 「新型コロナウイルスという再び目に見えない敵との闘いを強いられている。原発事故を経験し、それぞれの置かれている立場で、ものの見方が違うことを学んだ。反省と教訓を生かし、村民に希望を届けられるよう挑戦していく」