【あの時の判断】元南相馬市長・桜井勝延氏 現場の思い、世界へ 「ユーチューブ」で声届ける

2021/03/05 12:57

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震災と原発事故当時を振り返る桜井元市長
震災と原発事故当時を振り返る桜井元市長
ユーチューブで世界に現場の声を届ける桜井元市長=2011年3月26日
ユーチューブで世界に現場の声を届ける桜井元市長=2011年3月26日
市役所を避難させない旨を職員に伝える桜井元市長(手前)=2011年3月20日(南相馬市提供)
市役所を避難させない旨を職員に伝える桜井元市長(手前)=2011年3月20日(南相馬市提供)

 南相馬市の桜井勝延元市長は二〇一一(平成二十三)年三月二十日の夕方、市役所二階の正庁に市職員を集めた。

 マイクを取って職員に向かって問うた。「(職員に)採用された時、日本国憲法に基づき、公務員として全体の奉仕者だと誓っただろ」。東京電力福島第一原発事故で約七万二千人の市民の多くが地元を離れ、残っていたのは一万人ほどだった。「市民が一人でも残っている以上、役所は避難させない」と断言した。

 その時点で、原発がどうなるか分からず、動揺している職員を落ち着かせる意味があった。しかし、悲鳴に近い声を上げて、反論する女性職員もいた。

 市のトップとして市民の命を守らなければならない。だが、予想外の困難な出来事が次から次に起こる。不眠不休の業務で身も心も疲れ果てていた。職員への訴えから四日後の二十四日、ボランティアに来ていた市内出身者から動画投稿サイト「ユーチューブ」で現状を発信してはどうかと勧められた。

 率直な思いをぶつけた。「人はお互いに助け合ってこそ人だと思います」。二十六日に公開されると、国内外で大きな反響を呼び、後に米誌タイムの「世界で最も影響力のある百人」に選ばれるきっかけになった。

     ◇     ◇

 東日本大震災が起きた二〇一一年三月十一日午後二時四十六分は、南相馬市役所の議場で、市議会三月定例会の一般質問が行われていた。

 本県沿岸に大津波警報が出され、間もなく避難勧告を発令した。

 桜井元市長は市役所の外に避難し、午後三時ごろに市役所駐車場で第一回災害対策本部員会議を開き、幹部職員に情報収集を指示した。

 「(津波は)本当に来るのだろうか」。市役所屋上に行くと、思いはすぐに打ち消された。海の方角にある市内原町区下渋佐や萱浜付近から白い土煙が上がっていた。

 この日の夜、第一原発に勤務している男性から「もう原発から避難しろと言われた。市も避難すべき」と告げられた。その後、父が原発で働く市職員から「原発がコントロール不可能になった、とメールが来た」とも伝えられた。

 「相当やばいのか」。目の前が真っ暗になった。

     ◇     ◇

 原発に関する情報はどれも確証が取れなかったため、三月十二日朝の災害対策本部員会議では触れなかった。同日午後三時三十六分、福島第一原発1号機が水素爆発した。

 直後から情報が入り乱れた。午後五時すぎ、1号機建屋が吹き飛ぶ様子をテレビで見て、「外出を控えてください」と防災無線で訴えた。午後六時すぎには半径二十キロ圏内に避難指示が出された。地図で対象地域を割り出し、避難を促した。

 十三日、今度は3号機が危ないとの情報が入り、危機感を募らせた。十四日午前十一時一分に水素爆発が起きた。原発から半径二十キロ圏内に屋内退避が呼び掛けられた。

 爆発前に市民を避難させられなかった虚無感と脱力感を全身で味わった。

 十五日、半径二十~三十キロ圏内の地域にも屋内退避が指示された。同時に物流が滞った。灯油が不足し、津波犠牲者の火葬ができなくなり、遺族から怒りの声が寄せられた。地元のバス会社の協力を得て、市民を相馬市や伊達市、宮城県丸森町に集団避難させた。桜井元市長は「とにかく情報が錯綜(さくそう)し、どれが事実か判断ができなかった」と当時を振り返り、災害発生時の情報の送受信に警鐘を鳴らす。

 十六日朝にNHKニュースに生出演し、市内の状況を伝えた。それを見た新潟県の泉田裕彦知事(現衆院議員)から「南相馬市民全員を受け入れる」との電話を受けた。避難計画を作り、同日夕方に避難所で説明会を開き、十七日から同県への集団避難を始めた。

 そして、住民は一万人ほど(推定)になった。人通りがない町になっても役場機能を維持し続けた。


■南相馬市の主な出来事

【2011年】 

▼3月11日
 東日本大震災発生 南相馬市で震度6弱を観測 南相馬市災害対策本部を設置 大津波襲来

▼3月12日
 浪江町の一部住民の避難受け入れ 東京電力福島第一原発1号機で水素爆発 南相馬市小高区の避難所の住民が半径20キロ圏外へ集団避難を開始

▼3月14日
 東京電力福島第一原発3号機が水素爆発 南相馬市で震災による死者161人、行方不明者110人を確認

▼3月15日
 相馬市、伊達市、宮城県丸森町への集団避難を開始

▼3月17日
 新潟県三条市、小千谷市、群馬県東吾妻町への集団避難を開始

▼3月26日
 桜井勝延市長が支援の継続などを呼び掛ける動画(3月24日撮影)を動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開

▼4月22日
 東京電力福島第一原発から半径20キロ圏内の南相馬市小高区全域と原町区の一部が警戒区域になる

【2012年】

▼4月16日
 南相馬市の警戒区域が解除され、居住制限、避難指示解除準備、帰還困難の各区域に再編される

【2016年】

▼7月12日
 南相馬市の居住制限、避難指示解除準備の両区域が帰還困難区域を除き解除される


■10年を振り返って 国は事前の対策を

 桜井勝延元市長は震災と原発事故から十年を前に、福島民報社の取材に応じた。

 -震災発生直後の状況はどうだったか。

 「津波の犠牲者をいかに少なくするかに必死だった。二〇一〇(平成二十二)年二月のチリ地震で、太平洋沿岸地域に津波が来る可能性が高まったが、大きな津波が来なかった。そのため、市民の中には『逃げなくてもなんとかなる』と、甘く考えてしまった人がいたのではないか。悔やまれる」

 -国とどう災害対応を進めたか。

 「直後は国や県からの情報はなく、決断の連続だった。そんな中、民主党の石原洋三郎衆院議員(現福島市議)が窓口役を担ってくれ、枝野幸男官房長官(現立憲民主党代表)らを紹介してくれた。要望を早く伝えられた」

 -震災前に、原発事故に伴う避難などの想定はあったか。

 「想定したことがなかった。原発事故はわれわれの頭の片隅にもなかった。現に南相馬市立総合病院は被災者の受け入れ対応病院になっていたし、避難計画を策定できるのは半径十キロ圏内の自治体で、南相馬市は対象外だった」

 -震災と原発事故で得た行政面の教訓は。

 「有事の際に地元の首長だけで冷静に判断するのは難しい。国は事前に専門家を派遣しておく必要がある。例えば、南相馬市は入院患者を市外に運び出したが、その判断が正しかったか。問われるところだと思う。命を守るための対応を専門的に判断できていれば、震災関連死をもっと減らせたはずだ」