【あの時の判断】元いわき市長・渡辺敬夫氏 避難区域、拡大懸念 市独自に自主避難を要請

2021/03/06 13:00

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震災の対応を振り返る渡辺氏
震災の対応を振り返る渡辺氏

 二〇一一(平成二十三)年三月十二日午後四時ごろ。突然、東京電力福島第一原発1号機で起きた水素爆発の衝撃的なニュースをテレビが伝え始めた。

 いわき市消防本部に設置された市災害対策本部で東日本大震災の対応に当たっていた渡辺敬夫市長(当時)は、建屋が吹き飛ぶ映像にくぎ付けになった。胸の内で不安が急速に膨らんでいく。

 「まずいな」。津波に巻き込まれた人々の捜索や救助に集中して指揮を執っていた。新たな危機の襲来を漠然と感じ、思わず表情をゆがめた。周囲にいた幹部も一様に表情を青ざめさせた。

     ◇     ◇

 刻々と悪化する原発の状況をテレビが伝えていく。頼みの綱だった政府や国から何も情報は入らず、テレビが唯一の情報源になった。政府は午後六時二十五分、福島第一原発の半径二十キロ圏内に避難指示を発令。圏内に入った楢葉町から千人ほど町民の受け入れ依頼が市にあり、続々と双葉郡から住民が移動してきた。

 「混乱が起きかねない」。市民に不要な外出を控え、落ち着くよう呼び掛ける市長コメントを発表したが、心中は冷静ではなかった。原発事故の状況次第で避難区域が拡大される懸念があったからだ。気にしていたのは、福島第一原発から三十キロ離れ、双葉郡と接している市内の久之浜町や大久町などの安全性だった。

 いわき市に避難者の受け入れ要請をしてきた楢葉町は、政府が福島第一原発の半径二十キロ圏内に避難指示を出して同町の避難が迫られる前の十二日朝には、避難に向けた準備を進めて市に連絡してきていた。福島第一原発に近い自治体の反応は、依然として政府や国とまともな情報のやり取りができない中で参考になった。

 「楢葉町が避難を急ぐぐらい、原発は深刻な事態になっているのだろう」。いわき市民にも市が独自に自主避難を呼び掛ける必要性を感じた。

 県議時代には長年にわたって原発問題に関わってきており、原発事故の危険性も十分に認識していた。「市民の命を危険にさらすわけにはいかない」。脳裏に刻まれた水素爆発の映像が、一刻の猶予もない状況であることを告げていた。十二日の夜には市民の自主避難を決断した。

     ◇     ◇

 県が確保したバスを借り、消防団や区長に自主避難の詳細を打ち明け、協力を仰いだ。睡眠不足で疲れはピークに達していたが、山積する課題に取り組まなければならなかった。

 市は十三日午前八時半、久之浜と大久の両町に自主避難を要請し、十五日午前九時半には双葉郡に隣接している小川町と川前町の一部にも自主避難を求めた。政府は十五日午前十一時、福島第一原発の二十キロから三十キロ圏内に屋内退避指示を発令。一連の動きに伴い、市内の他地区でも自主避難する人が相次いだ。JRいわき駅前からは人の姿が消え、多くの商業施設が休業した。

 息をつく間もなく、次の事態に備える必要があった。災害対応会議中だった十五日未明、市内で過去最高となる毎時二三・七二マイクロシーベルトの空間放射線量を計測したと、消防本部の幹部が急報を知らせに駆け込んだ。

 「避難指示の区域が拡大するかもしれない」。福島第一原発からの距離三十キロ、四十キロ、五十キロごとに避難経路や避難先の検討を指示し、全市民三十三万人を対象にした避難計画の策定も進めさせた。

 問題は移動手段だった。市内を南北に貫く六号国道は連日、市内から脱出しようとする車が数珠つなぎとなっていた。加えてガソリン不足が深刻で、陸路の移動は現実的ではなかった。そこで浮上したのが、小名浜港から船で多数の人を輸送する方法だった。

 「どうやって船を集めようか」。部下たちと協議を重ね、自衛隊の船舶と民間の旅客船を活用する案で落ち着いた。国や県、関係機関に船での避難計画案を説明して協力を求めた。幸いにも市内では避難区域が広がらず、計画を実行に移すことにはならなかった。

     ◇     ◇

 震災から一カ月後の四月十一日。がれきの撤去や道路、水道などの復旧が進み、都市機能が回復しつつあった中、浜通りを震源とする震度6弱の強い地震が再びいわきを襲った。

 田人町で大規模な土砂崩れが発生し、四人が死亡した。一カ月かけて通水していた各地の水道は約十万戸で断水となった。惨状を知り、落胆する職員たち。積み重ねてきた成果が一気に崩れたようで、徒労感にさいなまれた。

 それでも復旧作業を急ぎ、四月二十一日には市内の水道をほぼ復活させた。二十二日には久之浜町などに出された屋内退避指示が解除された。市外に自主避難していた住民も徐々に故郷に戻って来た。

 次々に生じる災害の事象に、限られた時間と情報の中でどう対応すべきか-。当時を振り返るたび、十年前の経験を後世に伝える重要性を痛感する。「大規模な災害は再び起きる。記憶や教訓を風化させてはならない」と訴えている。


■いわき市の主な出来事

【2011年】

▼3月11日
 東日本大震災発生 いわき市で震度6弱を観測
 市災害対策本部を市消防本部庁舎に設置
 避難所の設置を開始
 市内沿岸部全域に避難指示
 沿岸部に津波襲来
 知事に自衛隊派遣を要請
 全域で断水

▼3月12日
 東京電力福島第一原発の半径10キロ圏内に避難指示
 市消防本部と市消防団、DMATが沿岸部全域で救助活動を開始
 東京電力福島第一原発1号機で水素爆発 半径20キロ圏内に避難指示

▼3月13日
 市独自の判断で久之浜、大久両町に自主避難を要請
 市保健所で放射線スクリーニング検査開始

▼3月14日
 東京電力福島第一原発3号機で水素爆発

▼3月15日
 毎時23.72マイクロシーベルトの空間放射線量を観測(市内で最大)
 市独自の判断で小川町と川前町の一部に自主避難を要請
 東京電力福島第一原発の半径20~30キロ圏内に屋内退避指示(小川町、川前町、久之浜町、大久町の一部が対象)

▼3月16日
 国と県、市が共同でタンクローリー8台分のガソリンと軽油を市内11カ所の給油所に供給

▼3月29日
 小名浜港に震災後初めて、民間の大型石油タンカーが入港

▼4月4日
 市災害対策本部を市文化センターに移転

▼4月10日
 市内水道がほぼ復旧

▼4月11日
 浜通りを震源とする地震が発生 市内で震度6弱を観測
 田人町で土砂崩れが発生
 約10万戸が再び断水

▼4月21日
 市内の水道がほぼ復旧

▼4月22日
 屋内退避指示が解除


10年を振り返って 四重苦の複合災害

 渡辺敬夫元市長は福島民報社のインタビューに応じた。

 -十年前の自身の震災対応をどう評価しているか。

 「大地震と津波、原発事故、風評被害の四重苦の複合災害だった。マニュアルや経験が役に立たず、さまざまな事態を想定し、可能な限り対応した。何日も職場に泊まり込み、懸命に働いた職員のおかげだ。至らなかった点や批判はあるだろうが、最善を尽くしたつもりだ」

 -当時の政府との関係はどうだったのか。

 「政府は四月二十二日に市内の屋内退避指示を解除した理由を、市長から要請があったからと説明した。実際は要請していなかったので抗議した。政府の態度からは、責任を逃れようとする思惑が透けて見えるようだった。原発事故の情報を十分に市に伝えなかったことも加わり、不信感が募った」

 -震災後、インターネット上に偽りの情報があふれた。

 「多かったのは私が震災対応を放り出し、避難したという内容だった。明白な虚偽で、こんな情報が出回り、憤りを感じた。名誉を傷つける中身だったので、五百件ほどの書き込みを集め、警察署に提出した。デマ情報は他の災害でも拡散したと聞く。住民の皆さんがうその情報に振り回されないよう、対策が必要だ」

 -復興事業はまだまだ続く。今後、重要になるポイントは。

 「漁業の復興が、いわきの発展に欠かせない。放射性物質トリチウムを含んだ処理水が本県沖に放出されれば、風評被害が起きかねない。政府は処理水についての正しい知識を広める努力をしなければならない」