【あの時の判断】元飯舘村長・菅野典雄氏 国と積極的な折衝 帰村実現へ、特例政策提案

2021/03/07 17:12

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全村避難から帰還に向け、村政のかじ取りに身を賭した日々を振り返る菅野元村長
全村避難から帰還に向け、村政のかじ取りに身を賭した日々を振り返る菅野元村長
避難区域再編で帰還困難区域となった長泥行政区に設置した柵を施錠する関係者=2012年7月17日午前0時
避難区域再編で帰還困難区域となった長泥行政区に設置した柵を施錠する関係者=2012年7月17日午前0時
いいたて希望の里学園の開校式で新たな校歌を歌う児童と生徒=2020年4月5日
いいたて希望の里学園の開校式で新たな校歌を歌う児童と生徒=2020年4月5日

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生から約一カ月後の二〇一一(平成二十三)年四月十日、福島市の知事公館。飯舘村の菅野典雄元村長は非公開に開かれた会合に臨み、福山哲郎内閣官房副長官(当時)から衝撃的な言葉を告げられた。「飯舘村全域を計画的避難区域に設定したい」。一カ月後をめどに全村民を避難させるという政府の方針が宣告された。

 村は福島第一原発から北西に約三十~五十キロ離れた場所に位置する。政府は当初、原発から三十キロ以上に避難指示を広げない方針を示していた。しかし、放射性物質を含んだ雲は事故当時の北西の風に乗って村に飛来し、雨や雪となって降り注いでいた。原発事故発生の数日後から村内の至る所で放射線量が高くなっているとの情報が相次ぎ、一部の住民が既に村外への避難を始めていた。

 「ある程度は覚悟していたが全村避難は想像していなかった」。畜産や水稲を基幹産業とし、住民同士の助け合いを大切にしながら営みを続けていた人口約六千人ののどかな村は突如、存続の危機に立たされた。

     ◇     ◇

 分散避難は絶対にできない-。避難開始に向けての村と国との話し合いの中で、この思いを強くした。政府からは数百人規模で分散した上での県外への避難を打診されていたが、村から車で一時間の範囲という方針を譲らず、受け入れなかった。

 「多くの地域に分散すれば人と人のつながりがなくなる」。避難指示解除後の将来を見据え、コミュニティーを維持するために欠かせない方針だった。

 首相官邸に再三にわたって出向き、村の現状や避難に対する考えを必死に伝えた。避難により体調悪化が予想される高齢者については、村内の特別養護老人ホームでの介護の継続を要望した。避難の目安である年間積算線量二十ミリシーベルト以下を前提に屋内勤務での事業継続を必死に訴えた。「計画的避難と言うなら期間だけではなく、避難者の目線で中身をしっかりと考えてほしい」。村の要請に対し、政府は特例で事業継続を認めた。

 避難場所の選定は困難を極めた。村から車で一時間圏内の避難所や宿泊施設は既に浜通りなどからの避難者であふれていた。職員は休みを返上し、受け入れ先をしらみつぶしに探した。近隣自治体の協力を得て避難が完了したのは、計画的避難区域に設定されてから約二カ月後だった。

 避難のめどが立った後、病院で定期健診を受けたところ、体重は約七キロも減り、血圧の数値は二〇〇を超えていた。満身創痍(そうい)だった。

     ◇     ◇

 役場の機能を福島市飯野町に移し、帰村に向けた取り組みが始まった。期間を限定して自宅に宿泊できる特例宿泊を政府に認めさせるなど、他の被災市町村でも後に適用される、先駆けとなる政策を次々と提案し、実現させていくことになる。

 村は避難区域再編を経て、二〇一七年三月、帰還困難区域の長泥行政区を除き、避難指示が解除された。「二年で帰村する」と宣言していたが、震災と原発事故の発生から六年の月日が経過していた。

 国との積極的な折衝を続け、復興政策を進めてきたが、批判も寄せられた。「村民の気持ちを考えていない」「国のいいなりだ」。解除時期の決定や除染の方針を巡り、村民から強い言葉を直接投げ掛けられることも少なくなかったという。「村民の将来を考え、理想だけでなく現実的な選択をしてきた」と信念を明かした。

 特に心を痛めたのは学校再開を巡る議論だった。「子を思う親の気持ちは痛いほど分かるが、全員の願いを聞き入れては前に進まない」。村は避難指示解除から一年後の二〇一八年四月から村内での小中学校、こども園の再開を決定した。

 「君たちはこの先、古里で学ぶか、避難先の学校に通うか選択しなけばならない」。川俣町に設置した臨時校舎を訪問し、子どもたちに告げた。

 二〇二〇(令和二)年三月、小中一貫校の創設に伴い、廃校となった飯舘中の最後の卒業式。卒業生代表で答辞した生徒は数年前、村長から直接伝えられた言葉を振り返り、友人と過ごした学校生活に感謝の言葉を述べた。健やかに成長した子どもらの姿に涙があふれた。

 二〇二〇年十月、長泥行政区の避難指示解除など村の復興施策に一定の区切りがついたとして、六期二十四年務めた村長の職を退いた。「『公正無私』を信条に村の発展に身を尽くしてきた。私が下した判断が正しかったかどうかは時間がたてば分かるはず。大好きな美しい村の今後を見守りたい」と穏やかな表情で語った。


■飯舘村の主な出来事

【2011年】

▼3月11日
 東日本大震災、東京電力福島第一原発事故発生。飯舘村では震度6弱を観測

▼4月11日
 原子力安全委員会が県内12地点で年間積算線量が20ミリシーベルトを上回る予測を発表。飯舘村は全域が該当し、計画的避難区域の対象となる

▼6月23日
 福島市飯野町の市役所飯野支所に村役場飯野出張所を開設し、役場機能を移す。村は避難指示解除に向けた方針「までいな希望プラン」を公表し、2年以内の帰村を宣言する

【2012年】

▼7月17日
 計画的避難区域に設定されていた飯舘村が、年間放射線量に応じて「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」の三区域に再編される

【2017年】

▼3月31日
 帰還困難区域の長泥行政区を除き、避難指示が解除される

【2018年】

▼4月1日
 認定こども園「までいの里のこども園」開園

▼4月7日
 小中学校が村内で再開

▼4月20日
 長泥行政区の帰還困難区域の一部約186ヘクタールが特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定される

【2020年】

▼4月5日
 小中一貫義務教育学校「いいたて希望の里学園」が開校


■10年を振り返って 全村避難、寝耳に水

 震災と原発事故の発生から十年を前に、菅野典雄元村長は福島民報社のインタビューに答えた。

 -原発事故が発生してから約一カ月後に計画的避難指示区域に指定された。

 「避難はある程度、予測していたが村全域が対象になるのは寝耳に水だった。人口約六千人の小さな村とはいえ、全村避難は容易ではなかった。受け入れてくれた近隣自治体の当時の首長さんたちには今でも感謝している。原発事故への対応という今まで経験したことのない職務に当たった同士として戦友に近い感情を持っている」

 -帰村に向けた取り組みで苦労したことは。

 「原子力災害や放射能汚染に対し、人の考えや感じ方は百人百様だということ。危険と考える人もいれば、安全と考える人もおり、その両方の考えを尊重しなければならない。そんな中で決断を迫られる場面が多々あった。ある時から百点の答えだけが正解ではないと思うようになった。理想を求めながらも、現実的な七十点や八十点の答えを下すのも、前に進むためには必要だと考えるようになった」

 -今後の村の在り方や帰還困難区域の解除についての考えを聞きたい。

 「原子力災害で失われたものがそっくりそのまま元の状態に戻ることは不可能だ。在任中は意識して復興という言葉を使わず『新しい村づくり』と言ってきた。長泥行政区の避難指示解除については住民や国と話し合い、解除に向けた方針について慎重に検討を進めてきた。今後もこれまでの基本方針を大きく変えずに話が進んでいってほしい」



【写真説明】