【あの時の判断】元葛尾村長・松本允秀氏 政府指示待たずに 手探りの避難、福島、坂下へ

2021/03/08 16:44

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震災と原発事故発生から現在までの思いを語る松本元村長
震災と原発事故発生から現在までの思いを語る松本元村長
開設された葛尾村役場会津坂下出張所で業務に当たる松本元村長と職員=2011年4月
開設された葛尾村役場会津坂下出張所で業務に当たる松本元村長と職員=2011年4月

 葛尾村の松本允秀元村長は東日本大震災発生から三日後の二〇一一(平成二十三)年三月十四日午後九時十五分、全村避難を決めた。政府から正式な避難指示が出されていない中、東京電力福島第一原発がどうなるか先が読めない中での決断だった。

 「とにかく村民を避難させよう。後で大したことがないと分かったら、村に戻ればいい。村民の命を守るのが最優先だ」。村のトップとして信念があった。

 一刻の猶予もなかった。だが、どこに避難すればいいのか。地震の影響で通信網が途絶え、県と連絡が取れない。ふと福島市のあづま総合運動公園が頭に浮かんだ。村役場から約七十㌔北西に位置する。あそこには広い駐車場がある。最悪の場合、駐車場で野宿してもいい。

 すぐに村内の防災無線と光ファイバー網のIP告知放送を使って村民に呼び掛けた。「福島市のあづま総合運動公園に避難することを勧告する」

 一時間後の午後十時十五分、マイクロバス五台と自家用車に分かれて、村外からの避難者を含む六百十二人が福島市を目指した。

     ◇     ◇

 葛尾村は三月十一日午後二時四十六分、最大震度5強の揺れに見舞われた。四十七棟の屋根瓦が落下したが、大きな被害はなかった。

 翌十二日午後三時三十六分に福島第一原発1号機で水素爆発が起きると、沿岸部の市町村からの避難者が増え始め、一一四号国道、二八八号国道には渋滞ができた。

 村内の避難所は、親戚や知人を頼りに避難する人が二百人に達した。沿岸部から村内を通って中通りに避難する車が長い列を作った。徐々に原発が危ないらしいとの情報が入り始めた。不安が心を覆った。

 村議会全員協議会を開き、最悪の事態を想定し、村長判断で避難指示を出すことの了承を得た。職員に一人暮らしの高齢者ら村民の状況を把握させた。

 避難を検討する際、困ったのが避難先をどこにするかだった。政府から避難指示が出されていない中で、県に避難先の調整を探してもらうよう職員に指示した。

 職員が二度、県相双地方振興局に電話して、「避難する住民を受け入れ可能な市町村を紹介してほしい」と問い合わせたが、正式な避難指示が出されていない段階で明確な返事がない。そのうち、地震の影響による通信網の遮断で、電話がつながらなくなった。

 その後も、原発の状況が悪化し続け、村長は全村避難を決めた。

     ◇     ◇

 三月十四日午後十一時五十分に、あづま総合運動公園に到着すると、体育館には、既に約二千人が避難していた。葛尾村からの避難者も受け入れてもらい、一夜を過ごした。他地域から避難する人の情報も入る。大勢の避難者の中で、村民に限っての連絡は難しかった。

 もっと原発から離れ、村民がある程度まとまれる場所へ避難すべきと考え、職員と話し合った。原発から百キロ以上離れた場所への避難を想定し、避難先の検討を始めた。県を通じて会津坂下町を紹介された。再びバスに乗り、会津に向かった。三月十五日の午後一時半だった。

 会津坂下町の川西公民館に二百七十人、会津自然の家に八十六人が身を寄せた。

 松本元村長が会津坂下町に着いた時、携帯電話が鳴った。東京に住む知人からだった。葛尾村にいる姉と連絡が取れないという。急いで職員に確認すると、一軒だけ避難の連絡が漏れていたことが分かった。

 松本元村長は「原発がどうなるか分からない中、職員を向かわせるわけにはいかない」。自分で車を運転し、葛尾村に行った。無事に女性を福島市に住む息子の元へ届けた後、避難先の会津坂下町に戻った。

 政府はそれから約一カ月先の四月二十二日、東京電力福島第一原発から半径二十キロ圏内を警戒区域、半径二十キロ圏外の特定地域を計画的避難区域・緊急時避難準備区域として避難区域を設定した。葛尾村は警戒区域と計画的避難区域になった。


■葛尾村の主な動き

【2011年】

▼3月11日
 東日本大震災発生 葛尾村で震度5強を観測。住民生活課に災害対策本部設置

▼3月12日
 他市町村からの避難者が増え始め、114号国道、288号国道が渋滞。避難所2カ所で避難者受け入れ。村議会全員協議会を開き、村長判断で避難指示や予算編成の議会了承を得る

▼3月14日
 松本允秀村長(当時)が全村避難を決断。マイクロバス5台と自家用車などで、村外からの避難者を含む612人が福島市のあづま総合運動公園に避難

▼3月15日
 バス6台で会津坂下町に避難。川西公民館に270人、会津自然の家に86人

▼4月22日
 警戒区域、計画的避難区域、緊急時避難準備区域の設定

▼6月15日
 三春町貝山運動公園管理事務所に、村役場三春出張所開設

▼6月26日
 三春町の三春ダム周辺10カ所の仮設住宅へ住民入居開始

▼7月1日
 葛尾村三春出張所開設

▼8月10日
 葛尾村会津坂下出張所閉鎖


10年を振り返って 絶対は「絶対ない」

 松本允秀元村長は震災と原発事故の発生から十年を前に、福島民報社のインタビューに応じ、今の思いを語った。

 ―この十年を振り返って何を思うか。

 「『絶対』ということは『絶対にない』ということを学んだ。鴨長明の『方丈記』の一節に、地震の恐ろしさについて記されている部分がある。改めて、昔の人はすごいなと思う。何百年も前に、世の真実を言い当てていると身に染みて感じる」

 ―避難の決断を迫られた時の心境は。

 「とにかく村民の命、安全を守るため、避難しようというのが心にあった。もちろん、重大な事故にならないことを願っていた。仮にたいしたことがなかったら、その時に戻ればいいと考えた。しかし、村に戻るのにこんなに長い時間がかかるとはその時は全く思わなかった」

 ―住み慣れた古里を離れ、避難先ではどんな苦労があったか。

 「会津坂下町の方々には大変よくしてもらった。本当に親切で、消防団員が避難先の道案内をしてくれた。まだ寒く、ストーブの灯油を給油してくれた。町内の川西公民館に給食センターがあり、試運転が始まる時だった。センターで作った食事を提供してもらい、安心できた。感謝してもし切れない」