


伊達市の仁志田昇司元市長は、二〇一一(平成二十三)年六月下旬、政府が打ち出した特定避難勧奨地点の指定範囲を広げるよう政府担当者に求めた。「点での指定は地域を分断しかねない。住居単位だけではなく、面的な指定をお願いしたい」として待ったをかけた。
政府は六月十六日、東京電力福島第一原発事故で線量が年間二〇ミリシーベルトを超えると推定される地点を、特定避難勧奨地点に指定すると発表した。避難区域外でも局地的に線量が高い「ホットスポット」に当たる地域の住民の避難を支援する制度で、伊達市では霊山町石田、上小国などで指定が濃厚となっていた。住民の心をバラバラにするのは絶対に避けたい。譲歩するわけにはいかなかった。
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二カ月ほど前の二〇一一年四月、仁志田元市長はテレビで枝野幸男官房長官の記者会見を見ていた。
「霊山の一部に、避難対象地域と同じくらい高線量の場所がある」。突如突き付けられた事実に耳を疑った。
困惑しながらも、住民への独自支援の準備に着手した。六月初めに自主避難の支援を始めた矢先、特定避難勧奨地点の制度が明らかになった。政府から市に示されたのは住居単位での地点の指定だった。
町内会などの身近な組織で生活が成り立っている地域の実情とは合わないと感じた。地域コミュニティーへの影響を懸念し、面的な指定を政府との協議の中で訴えた。受け入れられなかったが、一軒ずつ指定を求めて食い下がった。
結果的に、基準値は下回っているものの線量の高い住宅の隣家や、子どもや妊婦がいる世帯も指定が認められた。「点も集まれば面になる」。政府と正面からぶつかり、精いっぱいの成果だった。
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政府は当初示した範囲をやや広げ、六月三十日に住居百四地点(百十三世帯)を特定避難勧奨地点に指定した。ただ、仁志田元市長には制度に対するジレンマが残った。「行政に曖昧な判断は存在しない。基準を設けて決めるしかないが、線引きの外側で『われわれも線量は高いじゃないか』という声は出てくる。当然の意見だ」
特定避難勧奨地点がある地域の市民は、あつれきを懸念していた。指定直後の住民説明会で「住民間に亀裂が生じるくらいならば、指定されない方が良い」「コミュニティーが壊れる」などと訴える声が上がった。指定世帯は避難した場合の支援や、避難の有無にかかわらず精神的損害の賠償があった。
二〇一二年十二月に全地点が解除されたが、指定場所が点在したことで地域内に賠償の格差が生じ、一部で分断につながった。
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仁志田元市長は二〇一二年三月、高線量の地域を解消するため、市内を空間放射線量の高さによってA、B、Cの三エリアに分けて除染方法を変える独自の方針を示した。
線量が高い場所は除染が遅れるほど、効果が薄くなる。健康被害を抑えるために除染の優先順位付けが必要だった。
市は特定避難勧奨地点を含むAエリアで、住宅と周辺の森林、公共施設、道路などでの表土除去や草木の剪定(せんてい)を実施した。比較的線量が低いCエリアはホットスポットを中心に除染した。
仁志田元市長は「特定避難勧奨地点の指定が長引き、コミュニティーの分断が深まると感じた。できるだけ早く、(地点の指定を)解消したいとの思いだった」と振り返った。
■伊達市の主な出来事
【2011年】
▼3月11日
東日本大震災発生。伊達、梁川で震度6弱、保原、霊山、月舘で震度5強を観測
▼3月23日
国が緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム「SPEEDI」による被ばく試算線量を公表
▼4月11日
原子力安全委員会が、霊山町石田と宝司沢など県内12地点で年間積算線量が20ミリシーベルトを上回る予測を発表
▼6月4日
市が放射線量の高い霊山の一部地域で、一時避難を希望する住民への独自支援を始める
▼6月16日
政府が、局地的に放射線量が高いホットスポットを「特定避難勧奨地点」に指定すると発表
▼6月30日
政府が霊山、月舘の113世帯を特定避難勧奨地点に指定
▼11月25日
政府が特定避難勧奨地点に、保原と霊山の15世帯を追加指定
【2012年】
▼3月2日
市が放射線量によって分けた三つのエリアで、線量に応じて除染を行う方針を示す
▼3月30日
政府が特定避難勧奨地点について、年間20㍉シーベルトを下回ることが確認されれば解除すると発表
▼12月14日
特定避難勧奨地点だった市内の128世帯が同地点から解除される
10年を振り返って 議論し現場で判断
仁志田昇司元市長は震災と原発事故から十年を前に福島民報社のインタビューに応じた。
|震災発生時は何をしていたか。
「市役所で職員から業務の相談を受けていた。地震が起きた後、すぐに対策本部を立ち上げ、被害調査を指示した。市民の生活支援が必要になり、水の確保などを進めているうちに原発事故が起きた。国、県から情報はなくテレビで見た。大変なことになっているとは思ったが、伊達市は原発から離れているので山を越えて来ないだろうと考えていた」
|線量が高い地域の住民への対応は。
「市でできることは限られていた。梁川や保原の市営住宅に空きがあり、希望者は入っていいとするつもりだった。準備していると特定避難勧奨地点の制度ができた。今度は、制度に基づいてやろうとなった」
|除染を進める上で課題はあったか。
「除染するということは相当な量の廃棄物が発生する。仮置き場の確保は除染の第一の条件で、地域で場所を決めてくれとお願いした。学校の校庭が文化財となっていて仮置き場として使えず、庁舎の駐車場をつぶして置いたこともあった」
|判断に迷いはなかったか。
「(前職の)国鉄職員時代、脱線事故に遭った時、運行を再開するため、その場の責任者の判断で緊急的に対処してもいいとなっていた。経験があったので決断は迷わない。何が最も取るべき道なのかは、みんなで議論して、現場で判断する。やらなくちゃいけないことは自然と決まっていた」