【あの時の判断】元大熊町教育長・武内敏英氏 新天地で学校再開 支えられた人のつながり

2021/03/11 19:22

  • Facebookで共有
  • Twitterで共有
学校再開や避難の対応を振り返る武内元教育長
学校再開や避難の対応を振り返る武内元教育長
会津若松市文化センターで行われた合同入学式で、児童らに学用品を手渡す武内元教育長(左)=2011年4月16日
会津若松市文化センターで行われた合同入学式で、児童らに学用品を手渡す武内元教育長(左)=2011年4月16日
教科書などの新しい学用品を受け、会津若松市の旧河東三小校舎で新学期をスタートした大熊町の子どもたち=2011年4月19日
教科書などの新しい学用品を受け、会津若松市の旧河東三小校舎で新学期をスタートした大熊町の子どもたち=2011年4月19日

 「教育長、学校を立ち上げっぺ。場所から何から一切任せる」

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生から六日後の二〇一一(平成二十三)年三月十七日。大熊町の武内敏英元教育長は、渡辺利綱元町長から町の学校再開の手はずを指示された。

 目に見えない放射線から子どもたちを守りたいとの思い、教員時代からの人脈が古里から約百キロ離れた会津若松市へと意識を向かわせた。

     ◇     ◇

 原発事故に伴い、町は震災直後、田村市総合体育館に行政機能を移した。小学校の卒業式や新学期のスタートが見通せない中、町民からの厳しい言葉は日に日に増えていった。武内元教育長は一言一言を真剣に受け止め、「教育に対する町民の関心、熱意の大きさを痛感した」と振り返る。

 三月十七日午後十時すぎ、町の災害対策本部会議を終え、元町長に学校再開をどうするべきか相談した。渡辺元町長にとっても学校再開は最重要の課題で、原発から距離があり医療体制なども整った会津地方への避難を考えていた。元町長から「責任は俺が取る」と学校再開の全てを託された。

 武内元教育長には、再避難を防ぐためにも原発から百キロ以上離れた場所にしたいとの思いがあった。町民を受け入れてもらえる自治体の規模を踏まえ、会津若松市や喜多方市、会津坂下町を候補に考えた。どこに最初に頼むか-。頭に浮かんだのが会津若松市の星憲隆元教育長だった。

 武内元教育長は中学校教諭、星元教育長は小学校教諭として、檜枝岐小・中と福大教育学部付属小・中(現福大付属小・中)で同時期に働いた。三月二十二日、星元教育長に電話で協力を求めると「お互いさまだから」と即答してくれた。「時間も限られている中、電話で伝えられたのは彼との関係があってこそ」。教員時代からの縁が緊急事態に生きた。

 すぐに会津若松市の学校を視察し、電話から三日後の二十五日には渡辺元町長と会津若松市の菅家一郎元市長が市役所で話し合った。元町長が学校の受け入れを申し入れると、菅家元市長は「できることは何でもやる」とその場で役場移転の話も進んだ。同席した武内元教育長は「市長も『お互いさま』と言ってくれた。この言葉に本当に肩の荷が軽くなった」と今も当時を思い出し、涙に声を詰まらせる。

 会津若松市内の学校のうち、廃校となっていた旧河東三小は田園に囲まれた環境が大熊に似ていると感じ、校舎の借用を市に願い出た。学校再開の計画を町民に知らせると、震災直後から続いていた町の教育に対する町民からの厳しい言葉がうそのように止まった。

 再開する小中学校には予想の二倍近い児童生徒が通学を希望した。急きょ、町役場が入った市中心部の旧会津学鳳高の二階を中学校の校舎とした。渡辺元町長への相談から約一カ月後の四月十六日、会津若松市文化センターで合同入学式を行い、新天地での学校運営が始まった。

     ◇     ◇

 震災と原発事故から十年。町役場は二〇一九年五月に町大川原地区に整備した新庁舎に移ったが、学校はいまだ会津若松市に拠点を置く。町教委は二〇二三(令和五)年四月に大川原地区に幼保・小中一貫校の開校を目指し、新たな学校の魅力づくりを進めている。

 武内元教育長は子どもたちの教育に読書を取り入れる活動に力を入れてきた。大熊町教育長としては町の教育振興に加え、双葉地区教育長会会長として、ふたば未来学園中・高の開校などにも尽力し、二〇一八年九月に教育長を退任した。「自分たちが動けば、どこかに風穴が空き、周りで助けてくれる人がいる。この十年間で学んだことだな」。奔走した日々を振り返り、今も教育の未来を気に掛け続けている。


■大熊町の学校再開や避難を巡る主な動き

【2011年】

▼3月11日
 東日本大震災

▼3月12日
 田村市総合体育館に町災害対策本部設置

▼3月17日
 渡辺利綱町長(当時)が武内敏英町教育長(当時)に学校再開の対応を指示

▼3月22日
 武内町教育長が星憲隆会津若松市教育長(当時)に学校再開の協力を要請

▼3月25日
 会津若松市役所で渡辺町長と菅家一郎市長(当時)が会談

▼4月5日
 会津若松市の旧会津学鳳高に  町会津若松出張所を開設

▼4月16日
 会津若松市文化センターで町  の合同入学式

▼4月19日
 会津若松市で授業開始

【2019年】

▼4月10日
 町の居住制限、避難指示解除準備両区域の避難指示解除

▼5月7日
 旧居住制限区域の町大川原地区に整備した町役場新庁舎で業務開始


10年を振り返って 子どもを「最優先」

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生から十年を前に、武内敏英元教育長は福島民報社のインタビューに答えた。

 -学校再開に当たって考慮した点は。

 「『子どもたちを放射線から守る』との強い思いを持っていた。それは町長(渡辺利綱氏)も同じだった。地図上で福島第一原発から百キロの位置に会津若松市役所を見つけ、自分の中で移転先は会津地方だと考えた」

 -学校再開を町長に相談して十日もたたずに会津若松市への移転が決まった。

 「震災前からの『教育最優先』の思いを貫いた町長の決断力があってこそだ。半歩でも一歩でも動きだすと、多くの人が温かく力を貸してくれた。本当に感謝している」

 -教員時代の人脈が生きた。

 「人間関係とは絶えず、相手との関係を耕し、深めることが大切だと感じた。一人でも二人でも深い関係を築ければ、困った時にお互い助け合えるはずだ」

 -教育にとって大事なことは何か。

 「自分たちは長い間、原発の『安全神話』に浸っていた。原発事故が起き、何の責任もない子どもたちがなぜこんなに苦しい思いをしなければならないのかと悔しかった。自らの頭で考え、判断し、行動できる人間に子どもたちを育てるのが教育の大きな責任だ」