【名君の大名文化】浦上玉堂の人物像とは ー福島県立博物館で美術放談ー

2022/11/02 09:21

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守安館長らが玉堂の生涯に迫った美術放談
守安館長らが玉堂の生涯に迫った美術放談
玉堂の魅力を語る守安館長
玉堂の魅力を語る守安館長

 会津若松市の県立博物館は28日、開催中の「名君の大名文化-岡山池田家と会津 武、その華と志-」にちなんだ講座「美術放談」を館内講堂で開いた。展示する「山澗読易図」(岡山県立美術館所蔵)などを描いた浦上玉堂(ぎょくどう)の人物像に迫った。

 玉堂研究の第一人者で、岡山県立美術館の守安収館長(70)が登壇し、県立博物館の学芸員と玉堂の生涯や作品の魅力を語り合った。

 玉堂は岡山藩支藩・鴨方藩士から文人に転じた。会津藩に招かれ、保科正之を祭る土津神社の神楽を再興した。守安館長は「池田家とともに名君とされた保科に対する尊敬の念があったのではないか」と語った。席上、玉堂が親しんだ中国の古楽器・七絃琴による演奏もあった。

 現在、玉堂の作品や関連資料など合わせて15点ほどを展示している。


岡山県立美術館長 守安収氏に聞く 「武士と文人の両道兼備」

 守安館長に玉堂の生涯や作品の見どころを聞いた。

 -人物像は。

 「玉堂は鴨方藩内で実務能力が高く評価されており、16歳で元服してからは藩主の側近として重用されていました。一方で、早くから儒学や七絃琴に熱心に取り組む側面もありました。武士であり、文人でもあり、両道を兼備していました」

 -鴨方藩士から文人に転じた。

 「40歳を過ぎると『文』への傾斜が顕著になります。詩文や書画に励み、琴はさらに熱を帯びました。50歳で2人の息子を連れて脱藩しました。早くからリタイアし、余生を楽しむ人生を歩んだようにも見えます。当時は珍しいケースかもしれませんが、会津藩に仕えさせた次男・秋琴らとの関わり方を見ると、賢い人生の選択だったと感じています」

 -作品の魅力は。

 「多彩な能力にあふれた玉堂は生涯、琴士を本分としましたが、60代以降からは画の作品数も増えました。目に見えないものを感じ、それを表現する才に優れていました。晩年まで描き続けた山水画には、はっきりとした自身の世界観がありました。鳥のさえずりや川のせせらぎなど、どこか音楽の感性が読み取れる作品を多く残しています」