

JR東日本は今年、利用者の少ない地方路線の収支を初めて公表し、福島県内では磐越西線を含む4路線9区間が該当した。地方路線の存廃は採算性の観点から度々話題になってきたが、国の有識者会議が対応策の検討を促し、県が沿線自治体との協議を進める方針を示すなど議論は加速しようとしている。鉄路と共に生きる人々の姿を追い、鉄道が地域に果たす役割を考える。
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列車の走る橋桁が姿を消し、線路は完全に途切れている。冬空の下、川の中に置かれた土のう袋の周辺で作業員が行き交う。
8月の記録的大雨の影響で橋りょうが崩落し、喜多方-山都駅(福島県喜多方市)間の不通が続くJR磐越西線は来春の復旧に向け、工事が進む。
郡山駅から新津駅(新潟市)までの175・6キロが開通して100年余。険しい県境の山々も屈強に走り抜ける列車は多くの沿線住民を運び、往来を活発にさせた。
「1日に1000人近い人が駅に降り立った。列車が着くと花火が上がったの」
西会津町のJR野沢駅前にある「はまや旅館」の女将(おかみ)篠田キク子さん(71)は、人通りの少ない駅前の道を見詰めながら懐かしむ。
町内の大山祇神社で毎年6月に催される春の例大祭には多くの新潟県民が訪れる。神社によると、鉄道開通前の明治初頭、神主が馬に乗って県境を越え、神徳を広めたことが参拝者を増やすきっかけとなった。昭和40年代ごろをピークに、磐越西線は参拝のための重要な足となった。
はまや旅館は野沢駅開業の4年後の1917(大正6)年創業。駅前には当時、乗客を泊める旅館がいくつもできた。見知らぬ人同士が相部屋するほどにぎわっていたと、篠田さんは伝え聞く。
篠田さんが文弘さん(75)と結婚した昭和50年代、6月の土日には1日2本の臨時列車が野沢駅に止まった。列車が到着すると駅前で歓迎の花火が上がり、地元の民謡が流れた。篠田さんらは店先で出迎え、祈祷(きとう)を終えた参拝客を丹精込めた食事でもてなした。
例大祭の来訪者だけでなく、行商や富山の薬売りも野沢駅に降りた。磐越西線を通じて人が出会い、地域が活気づいた。「車のない時代、鉄道があってこそ野沢が繁栄した」
駅周辺のにぎわいは平成の初めごろまで続いた。現在も参拝客の7割近くを新潟県民が占めるが、磐越西線に平行するように整備された磐越自動車道の開通などで鉄道を利用する人は減り、臨時列車はなくなった。日帰りが主流となり、はまや旅館に泊まる参拝客も、今はいない。
喜多方-山都駅間の不通で野沢駅に止まる列車の本数は少ない日々が続く。「決まった時刻に列車の音が聞こえる方が安心するんだよね。だって、生活の一部だから」。一日も早い全線再開を願う。
ただ、その先には厳しい現実が待ち構える。喜多方-野沢駅、野沢-津川駅(新潟県阿賀町)の両区間はJR東日本が公表した2019年度から3年間の収支で赤字だった。「鉄道がなくなれば、野沢は『陸の孤島』になってしまう」。篠田さんは存廃議論の行方に気をもむ。
大量輸送を可能にした鉄道は人々の往来だけでなく、地域に新たな産業も生み出してきた。
※JR磐越西線 郡山-新津駅(新潟市)間の全43駅175・6キロ。1898(明治31)年7月26日、「岩越鉄道」として現在の郡山市の郡山-中山宿駅間が開業した。1899年7月に若松駅、1904年1月に喜多方駅まで延伸。国有化に伴い「岩越線」と名称を変え、1914(大正3)年11月1日に新津駅まで全線開通した。1917年10月に磐越西線の名称となった。