鉄路と生きる

【鉄路と生きる(15)】第2部 常磐線 新たな燃料拠点形成 人口増…往来活発に

2023/01/05 09:20

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常磐線の歴史をつづる本に目を通し、エネルギー革命と沿線のにぎわいに思いをはせる木幡さん
常磐線の歴史をつづる本に目を通し、エネルギー革命と沿線のにぎわいに思いをはせる木幡さん

 1950~60年代。日本の燃料の主役は石炭から、安くて利便性の高い石油に代わった。いわゆる「エネルギー革命」だ。当時の国鉄が路線や車両の電化を進め、石炭の需要が減ったことも影響した。首都圏に石炭を運ぶ常磐線とともに栄えた浜通りは、エネルギー革命のあおりを受ける形となり、沿線の暮らしや産業は大きく変わっていった。

 「駅周辺から、炭鉱の名残はたちまち消えていった」。炭田史に詳しい元いわき市職員の小宅幸一さん(71)は当時の常磐線沿線の様子を語る。綴(つづら)駅(現内郷駅)や湯本駅にあった石炭運搬の鉱山鉄道や側線は次々と撤去されて更地となり、住宅や工場が立ち並ぶようになった。

 現在のいわき市を構成する合併前の市町村は国に働きかけ、1964(昭和39)年に新産業都市の指定を受けた。工業団地の整備や企業誘致が進んだ。首都圏と直結した鉄路の貨物輸送は、製造品の出荷に貢献することになった。

 炭鉱産業の衰退と入れ替わるように、新たなエネルギー産業が沿線地域の発展に道を開いた。火力発電所や原子力発電所の建設だ。一帯は再び首都圏へのエネルギー供給拠点としての役目を担うようになり、常磐線は産業に携わる人々の往来を支えるようになった。

 なかでも東京電力福島第1原発の誘致と建設は、浜通りに変革をもたらした。「福島のチベットと呼ばれた双葉郡が、みるみるうちに発展した。駅もにぎやかだったよ」。双葉町長塚一区の前区長で原発建設にも携わった木幡智清さん(81)=いわき市在住=は、常磐線の歴史などを記した本を手に振り返る。

 それまで町の主な産業と言えば農業だった。家業の後継ぎ以外が町内で就職するには町職員などになるほかに選択肢は少ない。冬になれば常磐線に乗り込んで首都圏に出稼ぎに行く人が多かった。

 1967年に1号機の建設が始まると、関連企業の進出や土木事業で雇用が生まれた。多くの町民が地元にとどまり、仕事に就いた。常磐線に乗って全国から作業員らが集まった。

 新産業に従事することで住民の所得も向上し、沿線では住宅建築が相次いだ。「子どもの数が増え、各地の駅は学校に通う生徒であふれた」。木幡さんは目を細める。

 石炭を運ぶ目的で開通した常磐線は観光客を乗せるようになり、新産業の進出で沿線が発展した。居住者や交流人口の増加に伴い、いつしか人々の往来に欠かせない路線に生まれ変わった。

 だが、その日は前触れもなく訪れた。巨大な津波と原発事故というかつてない複合災害によって、浜の鉄路は断絶した。