鉄路と生きる

【鉄路と生きる(52)】第6部 阿武隈急行線 利便性強みに発展 伊達地方 企業、住宅が立地

2023/08/18 09:11

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梁川駅で行われた阿武隈急行線の開業出発式=1988年7月1日
梁川駅で行われた阿武隈急行線の開業出発式=1988年7月1日

 1988(昭和63)年7月1日。梅雨時の雨の中、傘を差した大勢の住民らが阿武隈急行線梁川駅(現福島県伊達市)前を埋め尽くした。

 「阿武隈急行線福島―槻木間全線営業致します」。駅ホームで行われた開業出発式で、阿武隈急行社長の山本壮一郎宮城県知事(故人)が全54・9キロの開通を高らかに宣言し、色とりどりの風船が放たれた。

 第三セクター鉄道・阿武隈急行線の開通は、国鉄丸森線として工事が進みながら、開通が先延ばしされてきた福島県側の住民にとって大きな悲願だった。沿線自治体は交通の利便性を武器に、企業誘致、住宅団地整備を加速させていった。

 「工事が止まり、落胆した住民は多かった。それだけに、全線開通時の地元の喜びは大きかった」。旧保原町職員OBの木谷直人さん(75)は当時の感動を思い出す。

 阿武隈急行線の前身・国鉄丸森線は福島―槻木(宮城県柴田町)駅間を計画区間としていたが、20年近く宮城県側の丸森―槻木駅間の部分開通にとどまっていた。福島県側でもルートとなる場所に鉄道用の土手が整備されたものの、工事が延々と進まない時期が続いた。

 土手が放置され、草が生い茂っていた光景を木谷さんは覚えている。「何でこんな大きな土手を造ったんだ」「道路にしてしまった方がいい」。地元からは、そんな声が漏れ聞こえた。

 国鉄の経営難の中、国や沿線自治体が議論の末に出した答えが三セクとしての再出発だった。1985年3月、未着工部分の工事が始まった。

 「鉄道を生かすことで大きく発展する。そんな期待感があった」。旧梁川町職員OBの木村清四郎さん(79)は新たな地域交通の誕生がもたらした効果を語る。

 阿武隈急行線の開通前後、町職員として工業団地への企業誘致や住宅団地の区画整理を担当した。首都圏や大阪、名古屋、京都の企業を訪ね、阿武隈急行線を引き合いに出し、町の強みを訴えた。

 発着駅の福島駅で東北新幹線とつながる好条件に企業側も高い関心を示した。工業団地の区画は埋まり、阿武隈急行線沿線の梁川、新田両駅前などに町が整備した宅地にも次々と戸建て住宅が立ち並んでいった。

 阿武隈急行線は1日当たりの運行本数を国鉄丸森線の5往復から大幅に増やして利便性を高めた。開業1週間で、乗客数は10万人に上った。順調な滑り出しで地域の足となっていった。

 だが、2000年代以降、景気後退などを背景に沿線では工場の撤退・縮小が続き、少子化も加速。年間乗客数は1995(平成7)年度の約325万人をピークに減少傾向をたどる。

 人口減少に加え、阿武隈急行線には度重なる困難が待ち受けていた。