【悪夢の電源喪失】東電福島第一原発

事故が続く原発の状況についての記者会見は物々しい雰囲気に包まれた。左側が東電担当者=3月15日、東電本店

(肩書は当時、敬称略)
 東京電力福島第一原発事故は平穏な県民生活を一変させた。その時、幹部や所員は原発内でどう動き、何を思ったのか。東電、政府の検証が続く中、複数の関係者が福島民報社に事故発生直後の模様を語った。事故が連鎖した数日間を証言で追った。

極限の対応、現場混乱

■3月11日

【午後2時46分】
 三陸沖を震源とするマグニチュード9の地震発生。福島第1、福島第二原発の稼働中の全基が自動停止

 事務本館が激しく揺れた。事務所内は天井が落下し、窓ガラスが音を立てて割れた。机や棚の書類は崩れ、パソコンは床に落ちて壊れた。所員は机の下にもぐり、目の前の物にしがみつく。ただならぬ事態に女性からは叫び声が上がった。

 揺れが収まると、館内放送が響いた。「早く避難してください」。所員は扉の前に散乱した荷物をかき分けながら屋外に脱出した。

 定期検査中の4号機の廃棄物処理建屋でタンク内の非破壊検査をしていた協力会社の作業員は強い揺れの後、監視員から「すぐに出てこい」との指示を受けた。タンクの外に出ると、建屋内は停電していた。「これはおかしい」と思いながら、非常灯を頼りに避難した。建屋内の配管や計器類が破損しているようには見えなかった。

 避難中、作業員仲間は「たいした地震ではない」などと話していた。実際に震度4~5程度の揺れとしか感じなかった。

 隣接する免震重要棟前の駐車場は500人余りの所員や協力会社の作業員らであふれた。部署ごとに点呼し、総務班に報告した。寒さもあって大半が免震重要棟に移った。

 免震重要棟の緊急時対策室では、技術、事務を含む大半の幹部が中央のテーブルを囲み、対応策を話し合っていた。時間の経過とともに各プラントの情報が入る。全基が自動停止したとの情報に幹部は安堵した。

 室内のテレビは、どれも地震の発生を報じていた。この後、今回のような巨大津波が来るとは誰も予測できなかった。

 協力会社の作業員の中には、津波の情報が流れても「どうせ10センチぐらいだろ」としか考えない人も多かった。作業員の1人は午後3時半ごろ解散し、帰路に就いた。翌日も復旧作業で出勤するつもりだった。

【午後3時27分】
 福島第一原発に津波の第1波。全電源喪失

 1~4号機の浸水高は11・5~15.5メートル。津波の高さは10メートルを超えた。

 「タンクが海にある」。対策室に一報が入ると、幹部に緊張が走った。流されたのは非常用ディーゼル発電機の燃料が入った重油タンク。「電源喪失」を意味していた。

 その後も各プラントに関する報告が相次いだ。幹部の1人は「現実に起きていることなのか」「夢を見ているようだ」としか思えなかった。東京・内幸町の本店から副社長の武藤栄がヘリコプターで福島第一原発に来るとの情報が入ると、事態はかなり悪いと感じた。

 対策室には多くの関係者が出入りし、騒々しかった。対応を打ち合わせても、現場には入れない。案が浮かんでは前提が覆る状態が繰り返された。全てが悪い方に向かっていても、全員が次々と意見や知恵を出し合った。

 所員の自家用車のバッテリーを外して現場に運ぶなど電源確保に向けてさまざまな手段を模索した。免震重要棟の電源は非常用発電機で確保した。

爆発、最悪を覚悟

■3月12日

【午前0時49分】
 福島第一原発1号機の原子炉格納容器内の圧力上昇と東電が国に報告

【午後2時30分】
 1号機の原子炉格納容器内の水蒸気を逃す「ベント」を実施

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地震の影響で天井が破損した福島第一原発1号機中央制御室=3月24日撮影(東京電力提供)
 ベントは放射性物質を外部に放出することを意味する。「地域の了解がなくていいのか」。対策会議で議論になった。所長の吉田昌郎は地域の了解を得るよう指示した。
 ただ、ベントは誰も経験したことがなかった。「どうしたら弁は開くのか」。幹部の1人はボタン1つで済むと思っていた。実際には現場に行かなくてはならず、電気、機械、現場の担当者が向かった。
 ベントの実施が決まった時、複数の社員が最悪の事態を覚悟し、家族らに遺書を書いた。幹部の1人は携帯電話のメールで送ろうとしたが、電波の状態が悪く届かなかった。

【午後3時36分】
 1号機で水素爆発

【午後7時4分】
 1号機に海水注入

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爆発で原子炉建屋が破損した(右から)4号機、3号機、2号機、1号機。事故から約8カ月が経過した時点でも無残な姿をさらしていた=11月12日、大熊町の福島第一原発

 大きな衝撃音が起きたが、対策室からは爆発があったかどうか分からず、幹部の1人は余震の影響だと思った。「1号機が骨組みです」。現場をパトロールしていた所員から一報が入ると、対策室内は静まり返った。

 吉田は核燃料が爆発したら大量の放射性物質が出て、制御不能になると感じた。複数の所員が死を意識し、1人は「立派な人になれ」と子どもにメールを送った。ただ、諦めきれなかった。「ここで死ぬのは納得できない。家族のためにも死ぬわけにはいかない」

 精神状態は極限に達していたが、各部署は最悪の事態を想定し、回避する手順を確認しながら動いた。原子炉への注水が最大の課題で、成功するたびに拍手が湧いた。決して喜べるような状況ではなかったものの、達成感が対策室内を包んだ。

 吉田は現場に指示を出す一方、本店にテレビ電話で現場の状況を伝え続けた。しかし、本店は現状が十分には分かっていないようだった。

 吉田は関西弁交じりで時折、声を荒げた。「安全が確認されなければ、現場に人は出せない」「外部被ばくだけではなく、内部被ばくも考え、しっかりと放射線管理をしてほしい」。そこにいた全員が「言っていることは正論だ」と感じた。

 11、12の両日は全員が徹夜で対応した。

事故連鎖、必死の作業

■3月13日

【午後3時41分】
 3号機で建屋爆発の可能性と官房庁長官。東電が蒸気を放出し真水、海水注入

■3月14日

【午前11時1分】
 3号機で水素爆発

■3月15日

【午前6時10分】
 2号機で爆発音。放射性物質漏えいの恐れと原子力安全・保安院

【午前9時38分】
 4号機の原子炉建屋で火災確認

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事故収束に向け1,2号機の中央制御室内で機器のデータの記録に当たる東電社員=3月23日撮影(原子力安全・保安院提供)

 相次ぐ事故で2、3号機は冷却機能を失った。さらに、2号機は燃料棒が全露出して空だき状態になるなど事態は一層深刻化した。大量の放射性物質が飛散し、3号機付近の放射線量が毎時400ミリシーベルトに達した中、原子炉への注水など懸命の作業が続いた。

 各部署は連鎖的に発生した重大事故に対し、目標を決めて対応した。休む暇はなかったが、除々に交代で休息を取れるようにした。

 就眠時は、汚染されやすいフロアマットを外し、タイルを張って養生シートに雑魚寝した。幹部はテーブルの下に寝た。上に掛ける物はなく、暖房で寒さをしのいだ。

 飲料水は1人当たり数日間でペットボトル1本だけだった。食事は主にクラッカーで、米飯は1日1回。缶入りの温かいみそ汁にありつけた時、所員の1人は命の大切さをかみしめた。新潟県の柏崎刈羽原発からおにぎりの差し入れもあった。堅かったが、全員がうまそうに食べた。

 水洗トイレは断水で使えなかった。免震重要棟の外にあった仮設トイレ3基は、すぐにタンクが満杯になった。相談を受けたグループマネージャーはタンクに手を突っ込み、紙や汚物を押し込んだ。

 喫煙者は休憩時、免震重要棟内の出入り口付近にある喫煙所でたばこを吸った。「みんなで吸って」と、吉田は数10本を差し入れた。雑談をしていると、気が紛れた。つかの間の休息だった。