【覆された備え1】シェルター構想幻に 安全信じ議論されず

大熊町副町長の鈴木茂(63)は4月上旬、会津若松市にある町役場会津若松出張所の一室で、1冊の本を食い入るように見つめた。「こんな壮大な考えを持っていたとは...」。視線の先にあるのは、元町長の遠藤正が昭和57年にしたためた一文だった。
「阿武隈山系の横腹に、双葉郡民7万人が万1の場合、最低3カ月ぐらい生活し得る地下街を建設する」
当時、大熊、双葉両町に立地する東京電力福島第一原子力発電所は運転開始から既に11年がたち、1~6号機の全てが出そろっていた。
「万が一」の事態は記されていない。だが、遠藤が「原発から放射性物質が漏れ、住民を脅かしかねない」と考えていたことは、読み手が容易に想像できる文脈になっている。地下街は放射性物質から住民を守る「シェルター」だった。
■持論と夢
遠藤の文章は、県原子力広報協会が発行した「県原子力安全行政10周年記念誌」に「ごあいさつ」の題名で掲載された。
遠藤は「持論と夢」と断りながらも、大まかな試算まで示した。地下街の建設費は約700億円、双葉郡民がその中で3カ月程度、避難生活を送る費用は約300億円とした。さらに大熊、富岡の両町境から阿武隈山系に突入する約10キロの避難道路も必要と訴えた。
道路整備費約100億円を含む1100億円を「国と県の責任で投入すべき」と主張した。その財源には、東京電力から県に入る核燃料税の半分程度を使うようにも求めた。
遠藤は「郡民7万人をして安んじて生活の出来得る基盤を樹立していただきたい」と文章を結んだ。
■心配が現実に
遠藤が構想を描いたころ、鈴木は町建設課職員だった。「トンネルを掘って、何かあった場合に人が隠れるとか...。そういう話はあった」と記憶をたどる。
「原発は放射性物質が外に漏れないように備えている。住民が避難するような事態にはならない」。鈴木をはじめ多くの住民は、国や東電の説明を長年にわたって信じ込んでいた。
記念誌の発行から、今年でちょうど30年がたつ。国や東電、県は遠藤の思いを真正面から受け止めることはなかった。構想は防災行政の表舞台で議論されることなく、歳月が流れた。
双葉郡の住民約7万3000人のほとんどは今、郡外への避難を余儀なくされている。遠藤の心配は現実となった。
■苦い経験
昭和43年、県職員だった遠藤は古里の双葉郡にある大熊町役場職員に転身した。福島第一原発の建設工事が着々と進み、町内の公共施設の整備も本格的に始まった。県も町も、そして多くの住民も原発に地域発展の夢を託そうとした時期だった。
町長の志賀秀正は遠藤の保健衛生関係の行政手腕に目を付けた。町内の上水道建設を担う役割だった。水道課長を経て、46年に助役に就いた。病気で他界した志賀の後を継ぎ、54年から62年まで町長を務めた。
「意志が強かった。その一方で、他人の意見にも耳を傾けていた」。遠藤の長男征一郎(71)は面影をしのぶ。町長時代は地元の道路づくりにまい進していたことは知っていた。ただ、シェルターの話は1度も聞いたことがない。「原発に不安を感じていたのだろうか」。亡き父の気持ちを推し量る。
遠藤には苦い経験があった。昭和48年6月、福島第一原発1号機で、放射性廃液が建物の外に漏れた。しかも、町への通報連絡が丸1日近く遅れた。「終生、忘れることが出来ない」。記念誌にそうつづった事故だった。
◇ ◇
原発事故を防ぐ手だては幾重にも張り巡らされていたはずだった。だが、国や県の対策は、予想だにしなかった過酷な現実を前に、後手に回り続けた。覆された防災計画の備えや見過ごされた死角を探る。(文中敬称略)