(2)高線量に一家不安 村を離れ避難先転々

2011年3月11日、飯舘村も大きく揺れた。高橋清さん(58)が勤務する伊達市のリサイクル事業所は業務がストップ。午後4時半すぎ、会社を出た清さんは福島市内にいた長女を拾い飯舘村飯樋字八和木の自宅に帰った。家にいた父と次女は無事。妻の広美さんも村内の勤め先から戻っていた。
停電で明かりはほとんどなく、情報もラジオだけが頼りだった。しかし、築50年を超す自宅に大きな被害はなく、差し当たっての食べ物や灯油はあった。水は地下水。灯油が切れてもまきは十分にあった。「自給自足でしばらく暮らせる」はずだった。
12日午後、東京電力福島第一原発の1号機が爆発した。清さんはラジオで知ったが、約30キロ以上離れた飯舘村まで影響が及ぶとは予想だにしなかった。14日には3号機も爆発。飯舘村に避難していた浪江町の人々が福島市など別の場所に移った。15日には屋内退避の指示が30キロ圏まで拡大されたが、自宅はその外だった。夕方から冷たいみぞれになった。「何も知らないから外に出てぬれた」。南東の風が多量の放射性物質を村に運んでいたと知るのに時間はかからなかった。
17日、八和木集落の集会が開かれた。集落の役員から「飯舘は放射線が高いみたいだ」と告げられた。原発事故に翻弄(ほんろう)される生活の始まりだった。
南相馬市の結婚式場を解雇され自宅に戻っていた長男ら子ども3人と、広美さんは混乱の中、「はっきりとしたことが分かるまで、取りあえず逃げよう」と福島市矢野目の広美さんの実家に避難した。村の水道水から基準値を超える放射性ヨウ素が検出されるなど不安な要素もあった。原発が幾分落ち着いたこともあって、3月下旬には自宅に戻った。しかし4月22日、飯舘村は「計画的避難区域」に指定される。「国も専門家も大丈夫と言っていたはず...」。清さんは腹の底から怒りがあふれそうだった。
5月初め、村から避難先として福島市渡利の県公務員住宅を紹介された。入居する一週間前、清さんは1人で掃除機を持って部屋を訪ねた。六畳一部屋と四畳半二部屋に台所の3K。「体育館で寝泊まりしている人もいる。文句は言えない」と思ったが「家族六人、ここに住めるのか」が正直な気持ちだった。