(4)怒り煮詰まって 遺骨 今もアパートに

「福島育ちの女房が、山奥の私の所によく来てくれたなあ。家には寝に帰るようなもんだったから、家のことも、地域のことも任せっきりだった。男はだめだなあー」
妻広美さんを失った高橋清さん(58)が今、口にするのは感謝と自責の言葉ばかりだ。
清さんは2人兄弟の弟。父藤七さん(85)がコメ、タバコ、炭焼きなどで2人を養った。
清さんは地元の高校を卒業すると、川崎市に出て働きながら夜間の専門学校に通い、好きな電気のことを学んだ。25歳で実家に戻り、福島市の家電店などで働いた。昭和63年10月、知人の紹介で知り合った広美さんと結婚した。
男女の双子に恵まれ、6年後には次女が誕生した。広美さんは村内の測量会社に勤めて家計を支えた。近所付き合いは広美さんが中心。地域でも職場でも欠かせない存在になっていた。週末、福島市の百貨店や南相馬市のショッピングセンターに行くのが一家にとって、ささやかな楽しみだった。全国の連合体に加盟してアピールした飯舘という「日本で最も美しい村」で、2人が過ごすはずだった穏やかな時間は原発事故で断ち切られた。
49日が過ぎて、村に震災関連死を届け出ると、すぐ認められた。1日現在、東日本大震災による村の死者は40人。直接死の1人を除き39人が広美さんと同様、避難に伴う震災関連死だ。
時間がたっても、自分より不幸な人がいるとは思っても、胸の内では怒りが煮詰まっていく。「命を取られ、気持ちまで奪われた。これだけ自然を破壊しても、政治や世の中は元に戻っていく」
周囲は「前向きになれ」と言う。娘たちに親のいら立ちが伝わらないよう、気を付けてもいる。「それでも」と思う。
賠償に関する書類の相談会が福島市飯野町の施設で開かれた。午前9時からという案内で多くの村民が来ているのに、東京電力側が会場に着いたのはギリギリの時刻。「外でみんな待ってるのに、それから会場づくりだよ。対応は上から目線。『申し訳ございません』と繰り返しても本当の謝罪ではないんだ」
「放射線量の高い村の墓に入れる気になれなくて...」と、広美さんの遺骨は今も福島市大森の借り上げアパートにある。1人欠けた部屋も清さんの心もがらんとしたままだ。