【第2部 安全の指標】(2)研究者の苦悩 医療現場に不安拡大

原発事故への不安の中、福島医大は被ばく医療の演習を繰り返していた=平成23年3月17日
原発事故への不安の中、福島医大は被ばく医療の演習を繰り返していた=平成23年3月17日

 平成二十三年三月十一日。長崎大大学院医歯薬学総合研究科長の山下俊一(60)=現福島医大副学長=は東京都の厚生労働省で全国の医大関係者が集まる会議に出席していた。山下の隣に座ったのが福島医大理事長の菊地臣一(67)だった。互いに顔を合わせるのは初めてだった。

 会議が終了して間もなく、東日本大震災が発生した。二人は被害状況を確認しながら慌ただしく大学に戻った。翌十二日の午後三時三十六分、東京電力福島第一原発1号機で水素爆発が起きた。文部科学省から連絡を受けた長崎大は東北支援チームの態勢を整え、十三日に放射線防護を専門とする先導生命科学研究支援センター教授の松田尚樹(56)ら五人を本県に派遣した。

 同じころ、菊地は本県唯一の二次被ばく医療機関のトップとして、不眠不休で震災と原発事故の対応に当たっていた。

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 長崎大医療チームは十五日に福島医大に入った。同日未明に東京電力福島第一原発の2号機、4号機でも爆発音や火災が相次いだことを受け、福島医大に大規模爆発に備えた被ばく医療拠点をつくる必要があった。

 空間放射線量を調べる松田の測定器の値は十五日夕、急上昇した。日中は毎時一マイクロシーベルトを示していたが、午後四時五十五分には毎時八マイクロシーベルトに達した。県の調査では、福島市の県県北保健福祉事務所で午後五時、毎時二〇マイクロシーベルトを超えていた。

 放射線量の上昇に比例し、福島医大は混乱した。「ここで医療を続けていいのか」「逃げるべきだ」。医療スタッフの間でも放射線への不安は瞬く間に広がった。

 長崎大医療チームから連絡を受けた山下は教え子で長崎大大学院医歯薬学総合研究科教授の高村昇(44)を追加派遣することを決めた。長崎大は平成十九年から五年間、国際競争力を高めるための文部科学省のプログラム「放射線健康リスク制御国際戦略拠点」の指定を受け、放射線健康リスクの解明などに取り組んできた実績があった。山下は、先に派遣したチームと高村で福島の混乱に対応できると考えていた。

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 十七日夕。長崎県の地元テレビ局の出演を終えた山下の携帯電話が鳴った。六日前に会議で出会った菊地からだった。「福島医大がパニックだ。すぐに来てほしい」。当時、福島医大の放射線に対する知識は十分ではなく、原発事故による不安を静めるには放射線の専門家である山下の力が必要だった。

 山下は菊地の一言で福島行きを決めた。十八日に飛行機を乗り継いで本県に入った。伊丹(大阪)空港から福島に向かう機内はがらがらだった。

(文中敬称略)