【長沼 藤沼湖決壊】防災体制整わず マニュアルもなし

東日本大震災で決壊した藤沼湖(右上)。山際に沿って鉄砲水が流れた=8月28日

 東日本大震災で須賀川市長沼地区にあるかんがい用ダム「藤沼湖」が決壊して半年が過ぎた。約150万トンもの水が簀ノ子(すのこ)川沿岸に流れ込み、下流にある滝、北町両集落を襲った。7人の命を奪い、いまだ1人が行方不明だ。悲劇はなぜ起きたのか。防災体制はどうだったのか。住民や関係者の証言などをもとに検証する。

■突然の鉄砲水

 藤沼湖から約2キロ下流にある滝集落。長沼中2年の鈴木航君(13)は3月11日、卒業式を終え、兄の憧(しょう)君(16)と一緒に自宅にいた。午後2時46分、突然の強い揺れに襲われ、必死に家財を押さえた。

 「逃げろ」。外の様子を見に行った憧君が自宅に戻り叫んだ。外に出ると、「ゴォー」という地鳴りとともに、鉄砲水が木をなぎ倒しながら迫ってきた。2人は自宅から西側にある坂道を必死に上った。水は簀ノ子川沿岸の家屋や橋をのみ込んだ。「ものすごい勢いで水が襲ってきた。家に流木が次々とぶつかり、怖くて頭の中が真っ白になった」。2人はあの時の光景が今も頭から離れない。自宅は濁流にのまれ、基礎だけになった。

 隣に住む森キミ子さん(64)もすさまじい音に驚き、外の様子を眺めていた。「バリバリ、ボキボキという音がしたと思った瞬間、自宅裏から水が迫り、膝まで一気に水位が上昇した」。父母を連れ、北の方角へ逃げた。何が起きたか理解できぬまま高台に避難した住民も多かったという。「頼るものがなく、自分たちで考えて逃げるしかなかった。水が引いた後も住民自ら安否を確認した」と振り返る。

 関係者の証言によると、藤沼湖は震災発生から約20~30分後に決壊した。津波と違い、水が迫る時間は予想できない。安全な場所に逃げるための十分な時間がなかった可能性が高いとみられる。

■サイレン効果なく

 「何とか窮状を切り抜けたいという空気があった。職員はとにかく必死だった」。当時、市長沼支所長だった小林良一さん(61)は藤沼湖決壊という事態に戸惑った。決壊を想定した防災マニュアルがなかったからだ。

 防災用の屋外スピーカーも設置されておらず、支所から火災用のサイレンを鳴らすしかなかった。しかし、滝、北町の複数の住民によると、サイレンは両集落まで聞こえなかったという。支所近くの住民は「何を意味するサイレンなのか分からなかった」と証言する。

 長沼地区の世帯には、災害情報を知らせる手段として電話回線を利用した「オフトーク」と呼ばれる通信システムが設置されていた。家庭に備えたスピーカーから非常事態を知らせるアナログ式の装置だが、市によると、約2~3割の家庭が未加入だった。自宅にいないと情報が得られず、決壊当時は大勢の市民が避難し、自宅を空けていたという。そもそも、職員が震災と決壊の対応に追われ、オフトークは使われなかった。

■想定に限界

 「約150万トンの水の流れや勢いを想定するには限界がある」。市長沼支所の榊原茂夫地域づくり課長はダム決壊を想定した防災マニュアル作りの難しさを指摘する。避難場所が被災することも予想され、地震や台風など他の災害と合わせて被害を想定することが難しいからだ。

 市は市内の長沼、岩瀬両地区で防災無線のデジタル化を検討している。藤島敬一市生活環境部長は「より安全な防災システムの導入を検討していた矢先、今回の決壊が起きてしまった。住民の安全を守るためにも早期の導入を目指したい」と力を込める。

 県によると、河川法に基づき堤高が15メートル以上の農業用ダムは県内で47カ所、堤高が15メートル未満のため池は3683カ所ある。これまで農業用ダムやため池が決壊した例はなく、災害で施設が破損した際の周辺住民の避難マニュアルやハザードマップは作製していないという。一方、県内のため池は江戸時代末期から明治時代に造られたものが多く、老朽化が進んでいると指摘する専門家もいる。藤沼湖決壊の教訓を今後の防災体制にどう生かすか。手探りが続く。

コメ農家に大打撃 再建の道険し

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雑草が生えないよう定期的に土を耕す真船さん。収入源が断たれ、来年以降も不安定な生活が続く

 東日本大震災による須賀川市の藤沼湖の決壊はダムから水を引いていたコメ農家に大きな打撃を与えている。今年は約830ヘクタールのうち、8割の農家が田植えができず、残りの2割は水田近くを流れる江花川から水を引いて稲作を行った。現段階で復旧の見通しは立っておらず、住宅を流された被災者の生活再建の足どりも重い。

■早期復旧望む

 「大切な収入源を断たれた。あと何年続くのか」。藤沼湖から水が引けず、今年のコメの作付けを断念した北町集落の農家真船英夫さん(82)はため息をつく。

 毎年、70アールの水田に作付けし、肥料や農薬代を差し引いて30万円以上の収入を得てきた。今年は国の戸別所得補償制度を活用し、ライ麦とソバを栽培したが、例年の収入に遠く及ばない。雑草が生えないよう今も定期的に土を耕している。「一日でも早く農家の生活支援とダムの復旧に当たってほしい」と切実だ。

 来年以降のコメ作りも心配され、農家の間では「水が使えないようでは改良区の存在意義がない」とし、水を管理する江花川沿岸土地改良区の解散を求める声も出始めている。

 県は県農業用ダム・ため池耐震性検証委員会を設置し、耐震性について検証作業を進めている。藤沼湖を含め今回の震災で被災したダムやため池の土質調査などを行い、補強工事の内容などを検討する。検証結果を基に来年度から補強事業を進める方針だ。ただ、事業規模は見通せない。

 被災者の間では当初、ダム再建に反対する意見があった。だが、決壊から半年が過ぎ、作付けできない農家に同情する声が上がっている。自宅が流された北町集落の会社員大森四郎さん(56)は「決壊当時はダムに反対だったが、同じ集落の農家が困っている状況を見て気持ちが変わった。被災者が補償を受け、安全対策に万全を期すならばダム再建は認めたい」と話す。

 今では被災した70世帯の大半が条件付きでダム再建を認めているという。

■補償協議平行線

 滝、北町周辺は更地が広がり、生活再建の足踏み状態が続く。大半の被災者は集落近くの雇用促進住宅や県内外の親戚宅に身を寄せている。市は7月に各担当課でつくる藤沼湖対策チームを発足させるなど今後の対応に向け、態勢を整備した。しかし、市役所庁舎が使えなくなるなど震災の被害が甚大で、決壊の検証や対策への出遅れ感は否めない。

 自宅が流された滝集落の会社員鈴木善之さん(36)は「生まれ育った思い出の残る土地にすぐにでも家を建てたい」と希望する。一方で、被災した女性を中心に「集落にいると決壊時の光景がよみがえってしまう」と不安の声も聞かれる。

 市と江花川沿岸土地改良区は家屋の損壊状況に応じて、それぞれ最大30万円を支給した。だが、被災者側はさらなる上積みを求め、話し合いは平行線のままだ。被災した約70世帯でつくる「被災者の会」の森清道会長(55)は「被災者は今後の生活に不安を抱いており、30万円ではとても足りない。元の生活を取り戻すためにも、しっかりとした補償をしてほしい」と訴える。

 ダムの設置者は県、湖を含む周辺の藤沼湖自然公園の所有者は須賀川市、水の管理者は江花川沿岸土地改良区と、責任の所在があいまいなことに不満を抱く被災者も少なくない。被災者支援の在り方について県と市、土地改良区、被災者の四者協議の開催が検討されているが、実現の見通しは立っていない。

※藤沼湖
 土を台形状にして造る「アースダム」で、かんがい用ダムとして昭和24年に須賀川市長沼地区に完成した。貯水面積は約20ヘクタール、貯水量は約150万トン。湖周辺はキャンプ場やパークゴルフ場などが整備されていた。設置者は県、湖を含む周辺の藤沼湖自然公園の所有者は須賀川市、水の管理者は江花川沿岸土地改良区。ダムの決壊で21戸の家屋が流失、全壊し、床上・下浸水は52戸に上った。