【共生の功罪1】地域の「夢」破れる 運転40年 自立を模索中

 「政府の動きはとにかく遅い。これじゃ、いつまでたっても町に帰れねえよ」
 15日、千葉市民会館で開かれた大熊町の町政懇談会。町長の渡辺利綱(64)は、焦りやいら立ちの声をじっと聞くしかなかった。

■4割が県外避難
 東京電力福島第一原発事故で県外に避難している町民は約4700人。町の人口の4割に当たる。町が7月から始めた懇談会は、千葉が4カ所目。30人が足を運んだ。
 「避難先に新しい生活基盤ができてしまえば、町に戻りたい人がどれほどいるのか」。事故から7カ月余りが過ぎたが、多くの町民は町内の環境放射線の数字を見ながら、さらなる避難の長期化を懸念する。渡辺は懇談会を重ねるごとに、悲観的な見方が町民に広がっていることを肌で感じている。
 「なぜ、自分がこんな時期に町長をしているのか」。渡辺の脳裏には時折、複雑な思いがよぎる。だが、すぐに思い直す。「これも運命だ。町民が事故前の暮らしを取り戻せるようにしなくては...」と覚悟を決めている。

■露骨な声も
 昭和30年代半ば。「町に原子力発電所が来るぞ」。渡辺が夢のような話を聞いたのは中学生のころだ。
 町内で福島第一原発1号機の建設が始まった昭和40年代初頭から、町は目覚ましい発展を遂げる。固定資産税や国からの交付金などの「原発マネー」が町の財政を潤した。道路や役場庁舎、学校施設、下水道...。公共施設が次々と新調された。
 渡辺は宮城県農業短大を卒業後に農業を継ぎ、原発と直接、関わることはなかった。町の振興と原発の密接なつながりを実感したのは、ちょうど20年前の平成3年、町議に就いてからだった。
 「議員の仕事は、いかに東電から金を引き出すかだ」。町民から露骨な声も聞こえた。「原発に頼りすぎては駄目だ。このままでは自立できない」という危惧はあった。だが、町財政の柱である税収の大半を「原発マネー」が占めている。町政の進路や町民の意識を一気に変えることは難しい命題だった。
 平成19年、町長に初当選した。福島第一原発がまたがる双葉町や県とともに、最も古い1号機の廃炉を見据え、新たな共生の枠組みを探り始めた。企業や研究機関の誘致、福島高専(いわき市)と連携した原子力技術者の養成...。
 「まさか、こんなに急に脱原発を迫られるとは」。予想だにしなかった現実を前に戸惑うしかない。
 東日本大震災と原発事故は、発電所との共生に未来を託した地域の夢を打ち砕いた。本県で初めて原発を受け入れた大熊町の人々が当時、何を思い、そして今、何を感じているのか。運命の日への道程をたどる。
(文中敬称略)