【共生の功罪2】出稼ぎ脱却したい 求めた豊かな古里
大熊町教育長の武内敏英(67)は、子どものころを思い出すたびに切なくなる。「毎年秋になると寂しかったな」
昭和30年前後。中学校や高校を卒業した若者が町内で選べる就職先は役場、農協、郵便局などに限られていた。
農家の働き手は冬から翌年の春にかけて、東京の高速道路や富山県の黒部ダムの建設現場などに出稼ぎに向かった。
■1次産業に7割
浜通りのほぼ中央に位置する大熊町は、昭和29年11月1日、大野村と熊町村が合併し誕生した。当時の人口は、現在よりも約2700人少ない約8800人。就業者の約7割が1次産業に従事する農村だった。
大熊町を含む双葉郡は西の阿武隈山系によって中通りと分断されている。東の太平洋岸は約30メートルの絶壁で、港などに利用できる場所は限定された。気候は比較的温暖だが、西からの風が強く、霜害と水稲結実期の長雨などにも悩まされた。
昭和35年の12月県議会。「双葉郡は率直に言って、本県の後進部と申してもよろしいと思う」。知事の佐藤善一郎は原発誘致をめぐる質問に対して、この地域の発展が県政の大きな課題であることを強調した。
■少ない働き口
武内の父親は大手建設会社に勤め、出稼ぎはしなかった。だが、秋の収穫が終わると近くに住む友人の父や祖父が県外に出掛けていった。「正月休みに戻るだけで、春の田植えまで帰ってこない。世の中は、そういうものだ思っていた」と振り返る。
「田んぼがある家は裕福だが、わが家はそうじゃない。だから勉強するしかない」。父の口癖だった。「学費を出せるのは高校まで」とも言い含められていた。
教職の道を夢見て迷っていたある秋の日、高校時代の担任教師が自宅に来た。「このままでは、農協か県立大野病院しか働き口はない。大学の学費は私が応援する」と父親を説得した。武内は福島大学芸学部(現人間発達文化学類)に進んだ。
そのころ、町内では東京電力福島第一原発の建設計画が持ち上がっていた。大人たちが「出稼ぎをしなくて済む」と喜んでいる話を聞いた。武内は原発をよく知らず「おっかないもの」と思った。同時に「町が豊かになって出稼ぎの地域から抜け出せればいい」と素直に感じた。
昭和40年代に入り原発の建設が本格化すると、出稼ぎをやめる人が増えた。原発に関連する企業も進出し、多くの職場が生み出されていった。
(文中敬称略)