【共生の功罪3】強い期待 誘致実現

 「長者が原」と呼ばれる原野に足を踏み入れると、人の背丈よりも高い草木に囲まれ、しばしば方角が分からなくなった。昭和30年代半ば、大熊町職員だった山岸三夫(74)は、うっそうとした松林の中を手探りで測量に当たった。「何のための仕事だろうか」
 町土木課の上司に尋ねても「大きな企業が来る」としか答えてくれなかった。山岸は「そこに原発が建てられると知ったのは、その少し後だった」と振り返る。
 昭和35年5月、県は国内唯一の原子力総合研究団体「日本原子力産業会議」に、東北各県で初めて加盟し、原発誘致への強い期待を県内外にアピールしていた。
 それから半年後の11月下旬。当時の知事、佐藤善一郎は誘致のため東京電力に双葉郡内の敷地を提供する意向を表明した。翌年、大熊町議会も原発誘致を県と東電に陳情。同年6月、東電は大熊町の用地取得を決めた。

■昭和30年代初頭
 誘致の動きは30年代初めからひそかに進んでいた。後に佐藤の後任の知事を務める木村守江は「長者が原」に目を付ける。約190万平方メートルで、東京ドーム40個分に当たる。戦時中は陸軍の飛行場が置かれ、戦後は一時、製塩業が行われた。

■「後進部」に転換期
 木村が著した「続突進半生記」によると、32年正月、木村は双葉町で開かれた自らの後援会で、誘致構想を明かした。「原子力発電など知る人もなく、あんな大風呂敷を拡げてよいものかと一笑に伏した人も多かった」(原文のまま)と記している。
 日本は戦後復興から高度成長期に差し掛かり、国や電力会社は水力、火力に次ぐ新たな発電所の確保を迫られていた。木村は、梁川町(現伊達市)出身で後に東京電力社長となる木川田一隆に原発建設の相談を持ち掛けた。
 佐藤が県議会の答弁で「県内の後進部」と言い表した地域は大きな転換期を迎える。

■大熊は良くなる
 このころ、大熊町の財政は火の車で、町職員の給料の支払いが遅れることも珍しくなかった。「給料をもらえないのに出勤する気はない」とストライキ状態の管理職もいた。
 「(東電は)とにかく大きな会社だから希望が持てると、役場の中の雰囲気は明るくなった。他町村の職員からも『これから大熊は良くなる』との話がちょくちょく出た」。山岸は原発誘致が決まった当時を語る。
 40年、町は東電との調整窓口として企画開発室を新設し、原発の受け入れ態勢を着々と整えていった。
(文中敬称略)