【共生の功罪4】建設、運転で町発展 雇用、経済依存増す
昭和38年、東京電力は大熊町の常磐線大野駅前の民家に仮事務所を設けた。原子力発電所建設に向けた土木調査などが目的で、東電社員ら十数人が詰めた。
「部屋に上がって一緒に飲もう」。商店街で魚屋を営む川井利治(77)が晩酌用の刺し身を届けると声が掛かった。
「原発ができれば、地域はよくなるばっかりだ」。川井と社員らの話は盛り上がった。
■商工会収入10倍
原発の建設が始まると、東電や関係企業の社員の姿が町内で目立ち始めた。新しい飲食店や商店が増えるなど商業活動も活発になった。「大熊町史」によると、町商工会の収入は36年度に62万円余りだったが、福島第一原発が運転を開始した10年後の46年度は会費収入などが増え、10倍近い約590万円に達した。
川井は「店に来るお客さんが多くなり、自転車で町内を回って魚を売らなくてもよくなった」と振り返る。売り上げが増え、自宅建築の10年ローンを5年で返済した。「大熊をいわき市に次ぐ大きな町にしたい」。そんな夢を抱いた。町職員に話すと「必ずそうなる」と請け負ってくれた。
その後、町議会議長、町商工会長として長年、地域づくりに関わった。しかし、夢だった「いわき市」のような地域にはならず、東電の存在だけが重みを増し、住民の6割ほどが関連企業で働いた。そして、事故が起き、全町民が町を離れた。それでも、川井は「原発がなければ、町の発展もなかった」。避難生活の中で複雑な思いを抱く。
■毎年上がる日当
出稼ぎを余儀なくされていた住民の暮らしぶりも変わった。
福島第一原発から数キロ離れた熊町地区に住む塚本英一(70)は、出稼ぎをやめて農業の合間に建設現場で働いた。「昭和34年に高校を卒業して地方の土木工事に行ったときは日当が270円。原発工事は、家から通って東京の出稼ぎと同じ400円がもらえるんだから、うれしかった」
日当は毎年、上がった。1号機の建屋建設時は残業込みで2000円にはね上がった。「仕事が面白いなんてもんじゃない。みんな寝ないで働いた」
その後、東電の協力企業に入社して電気関係の業務に携わった。5年前に退職するまで全国の原発で作業した。
事故後は会津若松市内の仮設住宅で避難生活を強いられているが、原発の全てを否定する気にはなれない。「原発には世話になった。恨みなんてない」
(文中敬称略)