【共生の功罪6】税金、交付金で潤う 現実前にして困惑
「町職員としての最初と最後を比べたら、天と地の差がある」。元大熊町職員、黒木和美(76)は人生を顧みる。2つの村が合併した大熊町の誕生間もない昭和31年から40年近くにわたり町政に関わった。
入庁時、役場庁舎は木造2階建てだった。職員はわずか17人。配属された税務課で思わぬ"歓迎"を受けた。先輩職員から告げられたのは父親の税金滞納だった。「職員になったんだから、いくらかでも納めて」
町内の農家は秋の収穫が終わらないと現金収入に乏しい、滞納は珍しくなかった。「7700円の給料から毎月少しずつ払った」。1~2年かけ全て返した。
そんな厳しい状況は、東京電力福島第一原発を誘致して以降、劇的に変化する。
■立地のメリット
原発の広大な敷地や大型設備は、固定資産税などの膨大な"恵み"を町にもたらした。「大熊町史」によると、町の一般会計当初予算の歳入額は、合併直後の30年度が約1700万円。福島第一原発1号機が営業運転を開始した46年3月には補正後で約4億2000万円と、16年間で24倍に膨れ上がった。
黒木が税務課長に就いた55年度に30億円を超えた。当時、双葉郡最多の浪江町の人口は約2万人で、大熊町の約9000人は半分にも満たなかった。だが、町財政の決算額は逆に大熊町が浪江町の2倍に達する裕福さだった。
石油危機の影響を受け、国は原子力などの発電所建設を進めるために電源三法交付金制度を設け、立地地域への交付金を手厚くした。東電も直接、町に寄付を続けた。これらを元手に、町は野球場や体育館などの公共施設をはじめ、小さな集落や田畑を通る生活道路まで次々と整備した。
53年ごろ、黒木は産業課長として農業の近代化事業を手掛け、原発立地のメリットを生かした。採算の厳しい零細農家は田畑を大規模農家に預け、原発に働きに行く。受委託農業の成功は他市町村から注目を集めた。「『原発のある大熊町にしかできない』と大反響だった」。今も大切な思い出の1つだ。
震災後、田村市、郡山市を転々とした。今は矢吹町で避難生活を送る。今月13日、大熊町役場近くの自宅に一時帰宅した。部屋は乱雑に散らかり、久々のわが家なのに落ち着かない。原発から数キロの距離。約4時間の制限を待たずに1時間ほどで離れた。
■40年を「1日」で
「40年を1日でひっくり返された。東電への怒りはある。ただ、町も町民も原発から収入を得ていたのも事実」。恩恵と事故-。2つの現実のはざまで、心の置き場は見つかっていない。(文中敬称略)