【共生の功罪7】地域の変貌に喜び 古里の将来見えず

 前大熊町長の志賀秀朗(80)は今月9日、傘寿を迎えた。避難先のいわき市のアパートには、県内外から息子・娘夫婦と孫の合わせて30人近くが顔をそろえた。
 町を離れて7カ月余り。あらん限りの情熱で発展へと導いた古里の行く先は、いまだに見えない。「政府の対応には、ごせやげる」。後手に回る事故対策に怒りと焦りを感じながら昔を思い出す。

■熱気がみなぎる
 昭和20年代半ば、志賀は双葉高を卒業した。農業を継いでコメや麦を作った。トラクターなどの大型農機はまだなく、牛や馬で耕すような時代だった。
 父の秀正が町収入役として町財政の金策に追われていたころ、父の代理で浪江町の商家などに金を受け取りに行かされたのは1度や2度ではない。出稼ぎが多い地域の窮状と父の苦労を嫌というほど知っていた。
 昭和30年代後半、降って湧いたように東京電力の原発立地が決まった。農業だけで生計を立てていくことに難しさを感じていたときだった。「東電の世話になったらどうだ」。既に町長に就いていた父の言葉に従った。
 臨時職員となった志賀は土木課に配属された。波の高さや潮の流れなど海洋調査の補助員として働いた。「もともと百姓だから、土木の『ど』の字も知らなかった」。東電のベテラン社員から教わり、自らも福島市で手に入れた専門書などで技術を学んだ。
 現場には、最新鋭の発電所を造る熱気がみなぎり、建設は着々と進んだ。46年3月、福島第一原発1号機が営業運転を開始した。志賀は正社員となり、主に発電所内の緑化などを手掛けた。
 町内には商店が増え、人口も増加に向かった。逆に出稼ぎをする農家が減った。志賀は地域の変貌に喜びを感じた。

■父親の後を継ぐ
 54年、町長の父が5期目の任期途中で他界した。その直後、志賀に転機が訪れる。友人らに推されて町議に当選した。
 2期目の任期の終わりが近づき、町内の有力者から言い含められた。「志賀君、次の町長は君だ。腹を決めておけよ」。その気はなかった。だが、大半の町議から支持を受け、断ることはできなかった。
 62年9月、町長に就任した。日本経済は「バブル」と名付けられた未曽有の好景気を迎えようとしていた。潤沢な税収、交付金などを生かし、公共施設の整備や公共料金の引き下げなどの施策を次々と手掛けていった。
 農家の後継者から東電社員、町議、町長...。その人生は、貧しい出稼ぎの町が原発との共存共栄を選んだ歩みと軌を一にしている。
(文中敬称略)