【立地の遺伝子8】 地域振興支えたが 事故の大きさに絶句

3月11日。元参院議員、佐藤静雄(80)=福島市=は東京で開かれた退職公務員連盟の会合を終え、JR東北新幹線に乗っていた。福島駅のホームに降りた瞬間、足元が波打った。ひっくり返り、起き上がることができなかった。揺れが収まるまでの5分間が異様なまでに長く感じた。
タクシーに飛び乗り、自宅に急ぐ。途中、余震を恐れて避難する人々の姿やブロック塀が崩れているのが目に入った。
「ただごとじゃない。原発は大丈夫か」。県幹部や国会議員として、発電所立地による地域づくりを進めてきた。東京電力福島第一、福島第二の各原発への不安が脳裏をよぎった。
■「県土豊かに」
佐藤は小高町(現南相馬市)出身で、双葉高から東北大法学部に進み、昭和29年、県職員になった。「昭和30年代から40年代にかけては、県内の全ての市町村がまだまだ貧乏だった。その中でも特に相双地方は貧しかった」と思い起こす。
相双地方出身というだけで、同僚から冷やかされたことさえあった。そんな悔しさが県職員として、県土全体を豊かにしようとするバネにもなった。
県開発課長を務めていた48年、第1次オイルショックが起きる。「石油がなくなれば日本経済はつぶれる」とのうわさが広がり、人々は争ってトイレットペーパーなどの生活物資を買った。
同じ年、福島市の県農業共済会館で政府主催による原発設置の公聴会が全国で初めて開かれた。反原発派が県内外から会場周辺に詰め掛けた。
公聴会前日、県開発課長として地元の準備に当たっていた佐藤ら県幹部のもとに情報が入った。「反原発派が道路を封鎖し、政府関係者の出席を妨害しようとする動きがある」
政府関係者は福島市の飯坂温泉の旅館に宿泊する予定になっていた。県側はひそかに宿泊場所を県農業共済会館近くに変更した。反原発派に悟られないよう、水面下で準備する徹底ぶりだった。
「原発を推進していくためにも、なんとしても成功させなければならない一心だった」と振り返る。
■自問自答
その後、佐藤は医大事務局長、農政、企画調整、総務の各部長、出納長という県の要職を歴任し、平成4年の参院選で当選した。この間、原子力、火力、水力などの発電所立地の恩恵は、国からの交付金や電力会社からの税収などの形で、佐藤の古里・相双地方はじめ県土全体の発展に結び付いた。
「長年、原発を推進してきたのは紛れもない事実だ。その恩恵で多くの人が豊かになり、日本の経済発展に寄与した。しかし、これまで受けてきた恩恵と原発事故の重大な影響を比べると、その功罪を毎日、考えざるを得ない」。佐藤の自問自答が続く。
(文中敬称略)