【「前線基地」の苦悩7】食料、水備蓄わずか 肉体、精神とも限界に

原発事故の政府現地対策本部が置かれた大熊町のオフサイトセンターにカレーのにおいが漂った。本部に詰めた政府関係者は、食欲が湧かなかった。「好みを言ってはいけない状況だったが、またカレーか、という思いが一瞬、よぎった」
センターが県庁に移るまでの5日間、センターで活動したスタッフの食事は昼食抜きの朝晩2回。しかも、毎食、レトルトのカレーとご飯だけだった。
■「籠城」は無理
センターでの対応が本格化していた昨年3月13日。震災発生から3日目だった。政府現地対策本部長の経済産業副大臣、池田元久は食料の備蓄が何日分あるのかを確認するように部下に指示した。
施設にあったのは、500ミリリットル入りのペットボトル飲料水が1032本、お湯や水で戻す白米950食、タヒチカレー900食、ビーフカレー168食。カレー以外では、固形の栄養食品があった。「120人が1日2食として、3日しか持たない」と分かった。長期の「籠城」に入るには、食料不足は明白だった。
センターに駆け付けた県職員は「そもそもセンター周辺の住民が全て避難することを想定していなかった。仮に事故収束の期間が長引いても、外部から食料や水を運び込めばいい、という考えだったのではないか。補給を絶たれた中での活動を考えてなかっただろう」と推し量る。
現実は厳しかった。震災発生から24時間以内に、大熊町内の住民はほぼ避難を終えた。もちろん、商店やコンビニは営業していない。そうこうするうちに、福島第一原発の状況は急速に悪化した。センター周辺の空間放射線量が上がった。外部から補給を期待できる状況ではなくなった。センターは孤立に近い状態に追い込まれた。
センターに派遣された東電社員は、途中から食事の回数が減ったと記憶している。「レトルトとはいっても、温かい食事が出るだけでも助かった。発電所に残った社員には、それすらなかった、と聞いている」
■1日1時間
食事だけではなかった。睡眠を取るのにも苦労した。センターには事故の長期化に対応できる宿泊用の部屋やベッドなどの設備はなかった。
仮に設備があったとしても、時々刻々と変化する事態に追われ、まともに寝ることができる状況ではなかった。誰もが肉体的、精神的な限界を次々に迎えた。ある人は椅子に座ったまま、気を失ったように眠っていた。
経産省原子力安全・保安院の原子力発電検査課長の山本哲也が取った睡眠は1日1時間ほどだった。椅子に座ってうとうとしていると、東京からの連絡でたびたび起こされた。3、4日目になると頭がもうろうとしてきた。
池田は13日午後、経産相の海江田万里にセンターの活動報告書をファクスで送った。「現地対策本部の運営に関する課題 要員の安全かつ健康に配慮(食事、睡眠)」と改善を求める文言を盛り込んだ。
池田は「体育館などに避難した住民の皆さんのことを考えると言いにくいが、本部長としては現場の士気への影響も心配だった」と振り返る。(文中敬称略)