車整備復興後押し 父の遺志継ぎ 避難の社員、誓い胸に集結

■富岡で工場再開 平山美弘さん(51)
東京電力福島第一原発事故により、富岡町からいわき市に避難している平山美弘さん(51)は、町内仏浜の居住制限区域にある自動車整備工場を再開させ、社員6人と仕事に励む。間もなく東日本大震災と原発事故から丸4年。家業を続けるのは、会社の創業者で先月亡くなった父の願いでもある。「古里で事業を続け、少しでも復興に貢献する」と誓う。
6号国道沿いにある平山自動車工業は4日、手際よく車を修理する社員の声で活気にあふれた。工場を再開して10カ月。売り上げはまだ原発事故前の5分の1ほどだ。しかし、昨年9月の6号国道の規制解除以来、原発や除染関連の会社から仕事の依頼が増えている。1日には常磐自動車道が全線開通した。平山さんは「今後ますます忙しくなる。客から信頼される仕事をしたい」と気を引き締める。
平山さんは富岡町出身で、磐城高から京都市の大谷大に進学した。卒業後、古里に戻り、父元吉さん=享年(79)=が昭和39年に起こした自動車整備会社を継いだ。社員8人と懸命に働いた。思い起こせば何と楽しい時間だったことか...。原発事故で、平山さんと社員はばらばらに避難した。別れ際の約束が、ずっと胸の中にあった。「また一緒に働こう」
いわき市内の借り上げ住宅でもんもんとした日々を過ごした。1日でも早く工場を動かしたい。顧客は全国に避難し経営が成り立つかどうか分からなかったが、再起を決意する。「自分にできるのは、車の整備だけだ」との思いがあった。国の直轄除染が終わった昨年5月、3年2カ月ぶりに工場の扉を開けた。社員6人が戻ってきた。みんな、あの苦しい時にかわした誓いを覚えていた。そして、この日を待ちわびていた。
平山さんは毎日、避難生活を送るいわき市内郷のアパートから約50キロの道のりを会社に向かう。滞在が許可されている午前9時から午後4時ごろまで働く。
町に一時帰宅する知人が工場に立ち寄り、「待っていたよ」と声を掛けてくれるようになった。大型車の整備に対応できる専用のタイヤ交換機を導入した。「仕事をやっていけそうだ」と感じ始めていた先月、元吉さんが急逝した。「少しでも富岡の近くにいたい」と広野町で避難生活を送っていた。
古里で仕事を続ける自分の姿を、父親は天国から頼もしく見詰めていると信じる。親子2代の情熱のこもった工場を必ず守り抜いて見せる。「おやじの分まで頑張るから」。どんな困難が待ち構えていても、前に向かって歩む。