(8)過酷な避難の日々 夫奪われ...「悔しい」

自転車に乗った南相馬市の女性職員が「津波が来ます。避難してください」と必死で叫ぶ姿を覚えている。2011年3月11日、藤田キミ子さん(75)は小高区の自宅近くの知人宅にいた。揺れが収まると、自宅にいた夫常盛さんの元に駆け付けた。
地震や津波で自宅に大きな被害はなかったが、東京電力福島第一原発の事故は夫妻に住み慣れた土地での余生を許さなかった。
夫妻は13日、長女の家族と共に石川町の親戚宅に避難。3月末にいったん小高区に戻ったが、間もなく東京都町田市の市営アパートに移った。部屋はエレベーターのない5階建ての建物の4階。車椅子の常盛さんを抱える家族には過酷すぎる環境だった。慣れない土地で精神的に追い詰められたキミ子さんはある日、大量の血を吐いた。急性胃潰瘍と診断され、約2週間入院した。「夫のかかりつけの南相馬市立総合病院近くに戻りたい」。昨年6月、同市鹿島区の仮設住宅に夫婦で移った時はホッとしたはずだった。
しかし狭い仮設住宅の生活は、体が不自由な常盛さんには耐え難かった。夜中も物音が気になって寝付けない。年を越した2月2日夜、布団に入った常盛さんは近所の物音にいら立ち、「うー、うー」と声を上げながら、何度か強く布団に足を打ち付けた。体調を崩し、病院に運ばれた常盛さんが80歳の生涯を終えたのは3日後のことだった。
医師は常盛さんが一時的に激しく動いたため、足などの静脈にできた血栓が肺に運ばれ動脈に詰まる肺梗塞で亡くなったと、キミ子さんに説明した。
1人で仮設に暮らすキミ子さんは、思い立つと軽トラックで小高区の自宅に向かう。床の間には船大工だった常盛さんが作った船の模型や大工道具が飾られている。さしたる破損もないのに夫の思い出が残る自宅で暮らせないのは、原発事故による放射線のためだ。
キミ子さんは畑仕事が生きがいだった。今は直売所に自慢の野菜を並べるささやかな楽しみも奪われた。そもそも3月まで、家族にとって原発の存在は意識の外にあった。
「車椅子生活で酸素ボンベが手放せない夫のような障害者が簡単に避難できるはずがない。悔しい。もう誰にもこんな悲しいことが起こらないでほしい」。仮設の天井を見詰め、キミ子さんは眠れない夜を過ごしている。