(9)混乱の中避難転々 ストレスで体調崩す

勇男さんの仏壇替わりの戸棚。一郎さんが毎日遺影に手を合わせている

 「ストレスがあったに、ちげえねえよ...」
 浪江町加倉から二本松市の仮設住宅に避難し、2012年7月3日に亡くなった末永勇男さん=享年(79)=の最期のころの様子を、長男の一郎さん(56)が振り返る。
 勇男さんは肺気胸のため郡山市の病院に入院していた。トイレから出て来ないのを不審に思った看護師が中に入ると、車椅子で息を引き取っていた。
 「トイレなんかで死なせてすまねえ」。誰にもみとられず逝った父親を思うたび、一郎さんは原発事故の理不尽さを痛感する。
 若いころは炭焼きと農業、30年ほど前からは一郎さんと共に石材の採掘を始めた。大病もせず、東日本大震災の当日までシルバー人材センターの派遣で町内の工場に勤務していた。遺影の顔は引き締まり、職人のような気質を感じさせる。
 震災翌日、妻定子さん(79)と同町赤宇木の一郎さんの家に避難し、数日後には一緒に隣の津島地区に避難した。津島には当時約8000人が避難していた。15日にはさらに別の場所への避難を促され二本松市へ。東和支所はいっぱいで、13キロ離れた大平体育館にたどり着いた。とにかく全てが混乱していた。
 混乱を引きずったまま、防寒、食事、入浴、排せつなど生活の全てが制限された体育館で約1カ月過ごした。
 勇男さんが体の不調を訴えたのは、4月ごろ、2次避難所の市内岳温泉のホテルに移って間もなくだった。先の見えない避難生活をあれこれ悩み、眠れない夜が続いていた。
 「腹が痛い」。夜中に定子さんに助けを求めた。真っ青な顔で腹痛と吐き気を訴えながら、「何とか大丈夫」と翌日までこらえたが症状は悪化。郡山市の病院に運ばれた。
 医師の診断は心筋梗塞だった。3カ所で血管が詰まり、緊急手術で一命を取り留めた。
 8月には二本松市の仮設住宅に移った。4畳半二部屋に定子さんと2人。同じ棟に一郎さん夫妻がいてくれる安心感はあったが、浪江の自宅とは比較にならない狭さだった。
 11月、たんに血が混じった。「肺に影があります」。主治医からがんを宣告された。それでも勇男さんは諦めなかった。毎日のように郡山市の病院に通い、放射線治療を受けた。「家に戻りたい」。闘病を支えたのは、故郷への思いだった。しかし病は再び、勇男さんを襲った。