(10)墓に入れない遺骨 「早く安眠させたい」

肺がんを宣告されても、末永勇男さん=享年(79)=は故郷の浪江町に帰る日を目指し、通院治療を続けた。やがて肺の影は消えた。
しかし自宅を離れて1年を迎えたころ、今度は肺に穴が開き、しぼんでしまう肺気胸と診断された。苦しそうな顔で「ぜいぜい」と息切れした。入退院を繰り返し、見る見るうちに痩せた。
亡くなる1週間前、勇男さんは長男の一郎さん(56)と妻定子さん(79)を呼び、蓄えがどのくらいあるかを、絞り出すような声で伝えた。「それで俺のことを始末してけろな」。「何言ってる。まだまだ大丈夫だ」。一郎さんは精いっぱい励ました。しかし、父は家族にみとられることなく、旅立ってしまった。
「いつ遺体を引き取りますか」。無神経な医師の言葉は悲しみに暮れる一郎さんの心を逆なでした。「狭い仮設に連れて行けるわけねえだろ。どこに運べばいい」。口にするのは、やっとこらえた。
遺体は葬祭場の一室に安置できた。「墓石を作る石材業者だよ。葬儀は満足にやりたかったよ」。避難者は周囲に負担を掛ける申し訳なさから密葬の場合が多いが、一郎さんは当たり前の告別式にこだわった。幸い浪江時代の隣近所と連絡が取れ、手伝いの厚意を得られた。告別式は7月6日だった。
定子さんが暮らす二本松市の杉田農村仮設住宅の4畳半。勇男さんの遺影は戸棚の中にある。狭い部屋に仏壇の場所はない。線香も遠慮している。何もかもが不自由だ。
納骨はしていない。放射線量の高い代々の墓に父親を眠らせたくなかった。遺骨を預かってくれた浪江町の長安寺には勇男さんのような原発からの避難による死者の骨つぼが並んでいた。勇男さんは41体目だった。
「いつか墓を作ってやる」。満足に父親を弔うことのできなかった一郎さんの無念は、何度遺影に手を合わせても消えない。墓は将来、自分たちの生活の拠点となる場所に作りたいと思っている。
「早く安心して眠らせてやりてえ。ふびんでしょうがねえよ」。定子さんは60年連れ添った夫が好きだった甘い菓子を切らさないようにしている。
浪江町が勇男さんを震災関連死と認めたのは10月だった。6日現在、同町の直接死は149人、震災や原発の避難に伴う関連死は209人となっている。