(26) 命の重さ 弔慰金 苦悩する遺族 申し出まで2年も 避難「対象外」とされ

福島市郊外の7階建てマンション。借り上げ住宅として川俣町山木屋の無職渡辺彦巳(ひこみ)さん(60)一家が引っ越してから2年が経つ。東京電力福島第一原発事故により古里は計画的避難区域に設定された。
原発事故直後の平成23年3月、一時的に避難した。拒む両親をなだめた。父親は避難先で病を発症する。約半月後に自宅に戻り、4月4日、急性心筋梗塞で亡くなった。母親も避難生活になじめない中、間質性肺炎を患い命を落とした。今年4月26日のことだった。
町はようやく4月中旬に災害弔慰金の受け付けを始めた。5月上旬、1通の書類に目を落とす渡辺さんの姿があった。
視線の先には災害弔慰金の申し出書。父親の死後、一度は町に相談したが、東日本大震災の直後に混乱を極めた町では、原発事故関連死を弔慰金の対象に含めるとした国の見解が職員に周知できておらず、避難中の死は対象とされなかった。
申し出書には避難状況を詳細に記す欄があった。事故後に体調を崩した両親の姿が浮かんだ。「避難が死期を早めた...」。父親の死から2年の時が過ぎていた。
第一原発の1号機建屋が水素爆発を起こした23年3月12日。放射性物質が拡散し、政府は原発周辺に避難を指示した。山木屋地区は屋内退避となった原発30キロ圏から、さらに遠く離れていた。
地区を東西に横切る114号国道。双葉郡と中通りを結ぶ道路は、原発周辺から避難する住民の車の列が続いた。道路沿いの草むらには至る所に白い防護服が脱ぎ捨てられ、想像もできない災害が原発で起きているのを感じた。テレビでは、繰り返し原発事故の映像が映し出された。近所からは住民が次々といなくなった。「この辺りも危ないんじゃないか」。事故から6日後には彦巳さんも避難を決意した。
「俺はここで死ぬから、構わねえでくれ」。父の義亥(よしい)さん=当時(87)=と母のマチさん=当時(84)=は避難を嫌がった。説得しながら、埼玉県草加市に住む彦巳さんの妹の家に送り届けた。自らは妻せつ子さん(51)と長男、次女の4人で水戸市の長女のアパートに身を寄せた。
当時、彦巳さんは川俣町内の事業所に勤務していた。仕事に復帰しなければならないため、21日に自宅に帰った。原発は依然として予断を許さない状況だった。両親には原発事故の状況が落ち着くまで、妹の家で過ごしてもらおうと考えていた。
山木屋の自宅に戻った翌日、彦巳さんの携帯電話が鳴った。妹は義亥さんが草加市の病院に入院した、と告げた。原発事故の直前から顔がむくむ症状が出ていた。病院で診てもらうと、うっ血性心不全の疑いがあった。
入院から5日後の3月27日、義亥さんを見舞った。草加市中心部にある民間病院。窓際のベッドで眠る義亥さんは顔のむくみが取れ、表情はすっきりとしていた。ひとまず安心し、避難生活に疲れが見え始めたマチさんを連れて山木屋に帰った。「親父も治ったら連れて帰ろう。古里が一番だ」
しかし、義亥さんの容態はその後、激変した。食事を取ることができず、衰弱して間質性肺炎を引き起こした。4月2日、彦巳さんが病院を訪れると、義亥さんは以前とは比べようがないほど、痩せ細っていた。病院スタッフから告げられた。「連れて帰るなら、今しかないよ」
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東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から2年3カ月が経過した。県内で復興への歩みが始まる中、原発事故による長期避難に起因し、命を落とす原発事故関連死が増え続けている。古里を追われた上、家族を失った避難者の悲しみは深い。遺族に支給される弔慰金は自然災害を対象にしており、行政や法曹界からは原発事故に特化した制度創設を求める声が上がるが、国の動きは鈍い。弔慰金制度は遺族に寄り添っているのだろうか。