(1)【第1部 コメを巡る事情】生産農家 福島産、誇りだった

風評。辞書には「世間の評判、うわさ」とある。二〇一一年三月に起きた東京電力福島第一原発事故以来、県産農産物は一部で評判を落とし、農家は根拠のないうわさに悩まされ続けてきた。厳しい検査で安全性を担保しているにもかかわらず、風評はなぜ消えないのか。解決の糸口を求め、生産・流通の現場を追う。(文中敬称略)
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刈り取りを控え、黄金色に染まったコシヒカリの稲穂を、秋風がやさしくなでる。寄せては返す、さざ波の戯れのようだ。
鏡石町五斗蒔(ごとまき)町の水田地帯。コメ農家の和田和久(57)は台風一過の十八日、豊かな実りを知らせる季節の風景を静かに見つめていた。自宅に戻り、出荷準備を進める。浜通りにある原子力発電所が事故を起こして以来、コメを詰める段ボールに産地名は印刷していない。かつては「福島産」という三文字が誇りだったのに。
このコメ、一体誰が食べてくれるのだろうか。うつろな目は浮かない心を物語っていた。
祖父の代、開拓農家として伊達市梁川町から鏡石町に移った。一九九〇(平成二)年に三十歳で就農し、地主から借り受けた水田でコシヒカリなどを栽培してきた。
二〇〇九年には長男(31)が手伝うようになり、二人三脚で食味の向上に力を注いだ。品質には絶対の自信があった。順風満帆だった生活を原発事故が襲う。かつては二十二ヘクタールの水田を借りていたが、コメが高値で売れなくなった影響などで今は十二ヘクタールに減った。
販売額は原発事故発生前年の二〇一〇年と比べて五~六割程度となった。水稲だけで十分に生計が成り立っていた事故前が遠い昔のようだ。当面の生活費として、泣く泣く三百万円を借りた時もある。
減収分を穴埋めしようと、タマネギと花卉(かき)の栽培を始めた。それでも、心にはぽっかりと、いつふさがるともしれない大きな穴があいたままだ。コメ農家の俺が何でタマネギを作っているんだろう。その疑問と怒りをどこに向ければいいのか。
原発事故を受けたコメの価格の低下、農家の高齢化などさまざまな負の要因が豊かな田園地帯を疲弊させる。
「コメを作っても、もうけが出ない」。仲間が一人、また一人と去って行く。町内を見渡せば、荒れた田んぼや畑が増えてきた。砂をかむような思いで今、土と向き合う。