(2)【第1部 宝を生かす】今井隆子さん(中) 絶景に導かれ移住 愛郷心を呼び覚ます

三島町にゲストハウスを開いた今井隆子(55)は福島市で生まれ育った。建築設計事務所を営む父、看護師の母、姉、妹の五人家族だった。
古里には悲しい記憶がある。福島三小の二年生だった頃、姉と一緒に幼稚園に三歳の妹を迎えに行った帰りだった。四号国道の横断歩道で妹が車にはねられて亡くなった。福島西女子(現福島西)高を卒業して間もなく、父が脳出血でこの世を去る。四十九歳だった。
父の死後、家族で仙台市に移り住んだ。世の中はバブル経済真っただ中で、営業や経理などの職歴を重ね、家計を支えた。「社会の第一線で自分の力を試したい」という好奇心も満たされた。
興味があった海外へ、たびたび旅行に出掛けた。ニューヨークのウォール街で働く女性の恋と仕事を描いた映画「ワーキング・ガール」を見て、女性の社会進出が進む米国に行けばチャンスがあると考えた。
一九八九(平成元)年六月、二十五歳で単身渡米する。ニューヨークの語学学校に通い、友人との交流や異文化に刺激を受けた。渡米から三年後、アルバイト先のレストランで働いていた日本人男性と結婚。一九九六年に世界的な会計監査会社「KPMG」に採用され、会計の実務経験を積んだ。
離婚を機に、キャリアアップを目指して二〇〇一年、ロサンゼルスで人材紹介などを手掛ける米国パソナに勤め始め、業務請負事業の立ち上げに奔走した。
事業は、リーマンショックでも揺るがない同社の柱に成長した。実績が評価され、入社十年目の二〇一一年、最高財務責任者(CFO)に就く。渡米から四半世紀を経て大手企業の役員に上り詰めた。映画のようなサクセスストーリーだった。
四十代後半まで走り続けた。父親が亡くなった年齢が迫り、将来への漠然とした不安が湧いてきた。やりたいことをやりきった、との達成感もあった。「日本に帰りたい」と郷愁を募らせる。
二〇一六年一月、心を揺さぶられる出会いがあった。在米日系人の新年会で、たまたま隣に座ったお年寄りが「福島弁」で話し掛けてきた。懐かしい響きが耳に残った。愛する家族を早くに亡くした悲しみから、心の奥に封印してきた福島への愛着がせきを切ってあふれでる。
インターネットで福島県の観光PR動画を見て、奥会津の風景に引かれた。冬の只見川を訪れ、絶景に心を奪われる。「ここに住みたい」と決意を固めた。(文中敬称略)