戻せ恵みの森に ―原発事故の断面―

【戻せ恵みの森に ―原発事故の断面―】第6部 文化(48) 風評への懸念一因 暮らしの風景失った

2022/06/02 09:15

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自宅脇に残る炭窯の入り口を見つめる遠藤さん
自宅脇に残る炭窯の入り口を見つめる遠藤さん

 東京電力福島第一原発事故発生後、川内村で炭焼きを再開した住民は数年で木炭作りをやめてしまった。山や森の放射線への不安や風評被害への懸念などがあったためだ。

 村内の無職遠藤ミツ子さん(82)の自宅脇には炭窯が残っている。緩やかなアーチを描く土壁の正面に直径五十センチ程度の穴が開いている。中をのぞくと人がしゃがんで入れるほどの空間が広がる。

 炭窯は土の壁をきねでたたいて固め、自然乾燥させて作る。中に均等な長さに切った木を縦に敷き詰め、雑木の枝などで隙間を埋める。火を付けてから二、三日燃やし続け、窯を密閉する。内部では種火が燃え続ける。五日ほど冷まして取り出す。低温で長く火にかけられた完成品は、一般に販売されているものより長持ちし、火力が強いという。

 遠藤さんは自宅で使うために炭焼きを続けていた。全村避難の際に村から離れたが、二〇一二(平成二十四)年に村に戻った。数回木炭を作ったが、二〇一五年にやめた。材料の木材に含まれる放射性物質への不安を感じたからだ。「原発事故発生後、何度か炭を作ったが、周辺の民家に煙がかからないよう配慮した」と明かす。

 村内の無職菅波勇己さん(83)は二〇一九年まで木炭作りをしていた。二〇〇四年に村内の石材店を定年退職してから、本格的に始めた。原発事故発生前は村内の観光施設に、月に約七百五十キロを販売していたという。幅三メートル、高さ一メートル、奥行き二メートルの大型の窯を使い、毎回約六百キロを約二週間かけて作っていた。

 二〇一六年、避難していた村内の仮設住宅から自宅に戻った後も続けていたが、三年で断念した。「放射線の影響が不安で出せず、使えない。売るとしても風評で消費者は買ってくれないだろう」

 村によると、村内で炭焼きをしていたのは菅波さんが最後だった。炭焼きは村の暮らしの中で文化として根付いていたが、その灯は消えてしまった。菅波さんは「炭焼きの風景が見られないことは寂しい」と悔しさを募らせる。

 双葉町には新山(しんざん)城跡がある。地域の子どもたちの学習の場でもあったが、今その光景は見られない。