【庁舎耐震化に遅れ】危機管理に甘さ 「正庁へ本部」断念
県 無線足りず情報収集難航
東日本大震災で、自治体の庁舎に設置するはずだった災害対策本部を別の場所に変更せざるを得ないケースが県内で相次いだ。庁舎の耐震化が遅れ、倒壊する恐れがあったためだ。災害発生時に情報を収集し、対策を指示する拠点としての機能を果たせず、危機管理体制の甘さが露呈した。庁舎の耐震性はどうだったのか、想定外の事態にどのように対応したのか。関係者の証言を基に検証する。
■耐震診断Dランク
3月11日午後2時46分、震度6弱の激しい揺れが福島市の県庁を襲った。当時、災害対応を担う生活環境部長だった佐藤節夫保健福祉部長は本庁舎にいた。庁舎外に出たが、本庁舎のことが気掛かりでならなかった。
県の地域防災計画で、災害時には本庁舎の正庁に災害対策本部を設置することになっていたからだ。本庁舎は耐震診断でDランクに位置づけられており、震度6強以上の地震で崩壊や倒壊の危険性があると指摘されていた。
「余震をはじめ、その他の突発的な事態を想定すれば、本庁舎に災害対策本部を置くことはできないのではないか」。佐藤部長から相談を受けた佐藤雄平知事は本庁舎に災害対策本部を置くことを断念し、本庁舎から100メートルほど離れた県自治会館に設ける決断をした。
小松一彦県災害対策課長は午後3時ごろ、県自治会館に入った。手元にあったのはボールペン1本だけ。館内から机やいす、パソコン、電話機など必要な物品をかき集めた。
国や市町村、県内各消防本部などと連絡を取り合うための防災行政無線は、本部が設置されるべき正庁には47回線あったが、県自治会館には2回線しかなかった。4台の衛星電話などを使って市町村などと連絡を取ったが、電話はつながりにくく、情報収集は難航を極めた。
午後4時半に1回目の県災害対策本部会議を迎えた。会議では東京電力福島第一原発の状況、把握できた死者や行方不明者の数などを報告したが、情報は限られていた。「初期段階で情報を収集する態勢が十分に整っていなかった」と振り返る。
■県庁で一番危ない
「もうだめだ」。震災当時、県庁東分庁舎6階にいた警察官の一人は机の下で祈った。強い揺れとともに大きな音が響き、ロッカーは倒れ、壁や柱などにひびが入っていた。
東分庁舎の耐震診断は本庁舎と同じ「D」ランク。県警は災害警備本部設置場所を東分庁舎最上階の6階に確保していた。ある幹部は「東分庁舎は県庁の施設で一番危ないとうわさされていた。大地震が起きた時、本当に東分庁舎で指揮が執れるのかと疑問だった」と語る。
東分庁舎の被災を聞き、松本光弘本部長は急きょ、福島署の大会議室への警備本部設置を指示した。同署は平成16年に耐震性を高める改築工事を済ませ、東分庁舎が使用できない場合に警備本部の設置を想定していた。以来、100人以上の本部員が大会議室にひしめいた。6月に県庁西庁舎12階に警備本部を移した。電話回線や警察無線は新たに配備した。ただ、上層階のため揺れが大きく感じられ、余震のたびに不安に襲われる。
最大の懸案は、本庁舎に県民からの110番通報を受理し、事件・事故の初動に直結する通h信指令室や照会センターなど県警の生命線である通信システムが集中していることだ。幹部の多くは「もし本庁舎が倒壊したら、県民の安全確保は困難になる」と強調。早急な県警本部庁舎の建設を訴える。
損壊危惧、以前から 学校優先、手回らず 国の財政支援望む声
郡山市では、東日本大震災で市役所本庁舎にある展望台が倒壊し、市民一人が犠牲になった。長年、耐震性の不十分さが指摘されていた。県内の市町村では財政難から学校などの耐震化が優先され、庁舎の耐震化にまで手が回らないケースが目立つ。
■8カ月たっても
「机の上のファイルが踊り、ロッカーは次々に倒れた。慌てて立ち上がったが、揺れで踏ん張るので精いっぱいだった」。震災当時、郡山市管財課主幹だった橋本正喜下水道管理センター所長は庁舎の様子を鮮明に覚えている。
管財課は、災害時に庁舎内が危険と判断した場合、委託業者に連絡し、避難を促す非常放送を依頼することになっていた。当時、庁内には市職員約800人に加え、多くの市民が各種手続きなどで来庁していた。「避難の非常放送を流してくれ。至急だ」。一刻も早く避難させるべきと受話器を取った。
「大きな地震がありました。慌てずに庁舎外に出てください」。午後2時49分、庁舎内にアナウンスが響いた。課の職員らに指示し、庁舎の被害状況と逃げ遅れた人がいないかをチェックした。窓ガラスが割れ、棚が倒れているが、壁や柱には大きな亀裂は見られなかった。
午後3時半ごろ、「庁舎の展望台が崩れている」との連絡が入った。5階から展望台に上がる階段は、壁などが大きく崩れ、とても人が入り込める隙間はなかった。消防のレスキュー隊員も到着し1時間余り捜索活動を続けたが、当時展望台での市民の目撃情報はなく、余震の中でのがれき撤去はリスクが大きいため捜索を断念した。
しかし、約1カ月たった4月18日、展望台から市内の男性が遺体で発見された。「やれることはやった。だが、何とかできなかったのだろうか」。8カ月たった今もやりきれない思いが頭をよぎる。
■30年間「不適格」
郡山市役所の本庁舎は昭和42年に完成したが、56年に改正された新耐震基準で耐震性が「既存不適格」となった。平成18年に行われた県の耐震診断では、震度6強~7の大地震で倒壊する危険性があるCランクが5カ所、倒壊の可能性が高いDランクが1カ所あることが判明した。
しかし、市内の小中学の校舎や体育館の補強工事や大規模改修工事が優先され、本庁舎の改修は計画すら立っていなかった。山田亨管財課長は「子どもたちの安全を第一に考えるのは当然だ。ただ、常時職員が約800人おり、市民も多い市役所本庁舎が長年、補強されなかったことは、震災を体感した今、考えると冷や汗が出る」と話す。
須賀川市の本庁舎は倒壊こそ免れたが、壁や柱の損壊が激しく、8カ月がたつ今も使用できない。市は平成18年から小中学校の耐震補強に着手しており、昨年から本庁舎の耐震診断を開始した。診断結果を待っていた矢先に被害に遭った。
市は市内八幡町の現在地に4、5年かけて本庁舎を再建する予定だが、庁舎再建に必要な財源は見通せない。大峰和好行政管理部長は「合併特例債の活用を検討しているが、それ以外の財源については全くの白紙。国は一刻も早く支援を打ち出してほしい」と訴える。
■免震装置
「外では電柱が左右に揺れていたが、机の上の鉛筆立てさえ倒れなかった」。震災当時、福島市役所新庁舎東棟にいた菊地威史管理課長(56)は地震の揺れを軽減する免震装置の威力に驚いた。市が対策本部を設置したのは午後2時50分。午後3時前にはテーブルを囲み情報収集を始めた。
一方、解体作業中だった旧庁舎は部屋を仕切る壁が地震で崩れていた。佐藤初男新庁舎建設課長(60)は「工事が少しでも遅れれば、旧庁舎にいた市民や職員にけが人が出たかもしれない。紙一重だった」と振り返る。
埼玉県は今年3月、県庁の敷地内に県危機管理防災センターをオープンさせた。免震構造を採用した災害対応の専用庁舎としては全国の都道府県で初めて。震度7の揺れを震度4程度に軽減できる。
震災直後にライフラインが途絶した場合に備え、電力を3日間供給できる自家発電機、井戸を完備。災害対応に継続して当たることができるように1000人3日分の食料や水をはじめ毛布を備蓄し、仮眠室やシャワー室を備える。屋上では太陽光発電を行っている。
※県内の災害対策本部設置状況
福島民報社の調べでは県内59市町村で役場機能を移している双葉郡8町村と飯舘村を除いた50市町村のうち、会津若松、郡山、いわき、須賀川、国見、川俣の6市町が東日本大震災で市役所や役場庁舎以外の場所に災害対策本部を設置した。県によると、市町村役場や公民館などの県内の防災拠点施設の耐震化率は平成27年度の目標値95%に対し、21年度現在で54・7%にとどまる。