【「逃げろ」命守った判断】 学校の津波対応 「運が良かっただけ...」 間一髪、課題残す

津波で破損した久之浜第一幼稚園=4月10日

 東日本大震災で県内の沿岸部の学校が津波に襲われた。地震発生が金曜日の午後2時46分という時間帯で、学校に残っていた子どもたちも多かった。本県では津波による学校での犠牲者は1人もいなかったが、当時、未曽有の震災と津波に学校関係者はどう対応したのか、避難態勢は万全だったのか。課題はなかったのか。今後への対策を含め、関係者の証言などから検証する。

IP111126MAC000011000_00.jpg ■高台に急ぐ
 沿岸から約500メートルの浪江町の請戸小。誰も経験したことのない長い揺れが襲った。防災無線が大津波警報の発令を知らせる。校舎には給食後に下校した1年生を除き、2年生から6年生までの児童77人が残っていた。
 教職員はすぐに「逃げろ」と児童を促し、避難場所に指定されている約2キロ先の大平山に向かって走った。森山道弘教頭(57)が最後に校舎内外を確認していると大津波が押し寄せてくるのが見えた。地震発生から約40分後だった。間一髪で車に乗り大平山の麓にたどり着く。乗っていた車は津波に流された。
 津波は何度も押し寄せてくる。危険を感じ、さらに数キロ西にある6号国道まで全員で山道を歩いた。通り掛かったトラックに乗せてもらい、サンシャイン浪江にたどり着いた。
 「とにかく児童を守るため冷静に判断することだけ心掛けた」と森山教頭は振り返る。同校は警戒区域内にあり、町への帰還や学校再開の見通しはない。だが、「いずれ津波に対する備えや避難の仕方などを検証しなければならない」と考えている。
 南相馬市で唯1、津波の被害を受けた鹿島区の真野小では1人を除く全校児童75人が卒業式の準備に取り組んでいた。教職員と児童はすぐに校庭に避難した。すると、車で児童を迎えに来た1人の保護者が叫ぶ。「津波が来るんじゃないか」。児童を教職員と保護者の車に振り分けて乗せ、約2キロ離れた高台に逃げた。押し寄せた津波は校舎の1階部分と体育館を全てのみこんだ。市教委の担当者は「防災計画で想定していた高さを大きく上回る津波が押し寄せたのは間違いない」とし防災計画の見直しを図る。
 いわき市の永崎海岸から約200メートルの永崎小は、職員と学童施設の児童約20人が残っていた。大槻貴教頭(50)は地震発生から約20分後、校舎裏手約2キロ先の高台に避難することを決めた。避難訓練を実施していて、児童も混乱もなく逃げた。翌日、津波が引いた校舎を確認すると、1階部分に約1メートル50センチの波の跡があった。

■どこに向かえば
 海岸から10メートルの、いわき市久之浜町の学校法人志賀学園久之浜第一幼稚園。大震災発生当時、園児126人のうち帰りを待つ80人が残っていた。余震が一段落すると津波が心配になった。保護者が迎えに来た園児などを除き、約60人を2台のバスに分乗させた。
 しかし、バスの帰宅の時間と重なっていたことで、青木孝子園長(55)はバスをどこへ向かわせるか判断に迷う。保護者が自宅前で子どもを待つ時間だった。家に送り届けないと家族も避難できない。比較的近くの子どもを乗せた1台は急いで園児宅を巡回した。もう1台は、園児を乗せたまま高台の地域で待機した。最後に青木園長が避難して約10分後に津波が襲った。園舎は壁まで崩壊した。
 震災当時、園に残っていた園児は1人も犠牲にならなかった。教職員のチームワークと機転に感謝する声が相次いだ。しかし、青木園長は「運が良かっただけかもしれない」と、当日の行動を慎重に検証している。
 避難訓練は実施していたが、今回は想定外の帰宅時に対応が求められた。「新たなマニュアルが必要だ」と青木園長は強く感じている。

※震災による子どもたちの犠牲
 文科省まとめによると、県内では東日本大震災で幼稚園児4人、小学生24人、中学生17人、高校生31人、特別支援学校生1人、大学生ら6人の計83人が犠牲になった。多くが学校外で津波の犠牲になったとみられているが、学校以外の場所では震災時の個々の検証が難しいという。県教委はどんな時でも災害時に安全に行動できるような防災教育や地域との連携の在り方が今後の大きな課題としている。


避難計画現実と差 経路や備蓄見直し 学校の津波対応

■今のままでは
 いわき市小名浜の海岸線にある、いわき海星高は津波が1階部分を突き抜けた。生徒は入試関係のために休みで、教職員約50人は全員近くの小名浜高校に避難した。
 もともとの同校の震災避難マニュアルには小名浜高に避難することだけが明記してあったという。
 震災後、宮城県や岩手県の学校の生徒が一晩中校舎に取り残された事態が明らかになり、校舎内に避難する場合を想定することにした。毛布や水、食糧を備蓄し、連絡が取れなくなった場合に備え高性能トランシーバー5台、情報入手用のラジオも常備した。現在は、登下校中の生徒の安全確保のための体制づくりを検討している。
 卒業式を終えた、いわき市の豊間中は部活動中の生徒約30人が校庭や体育館などに残っていた。地震発生後は声を掛け合い、校庭に集合した後に学校裏の高台にある公園へと避難した。
 避難訓練の想定では避難はそこで「終了」だったが、津波は公園のすぐ下まで来た。波が引けたタイミングで豊間小へ避難した。学校関係者の1人は「避難計画は今までのままでは駄目だと感じた。携帯ラジオ、懐中電灯など非常事態に備えた物品を用意しておく必要性も実感した」と話す。
 いわき市によると、市内の学校の避難計画は、各地域や施設の実情に合わせて各校で決めていた。しかし、今回の大震災を受け、市教委と市危機管理課が協議し、避難方法や避難所運営などについて基本的な方針を定めることにしている。

■陸の孤島
 相馬市の太平洋沿岸から約500メートルに位置する磯部小。標高24メートルの高台にある校舎を大きな揺れが襲った時、放課後の学校に児童約50人が残っていた。箭内晴好校長(53)は全員校舎から出るよう指示し、強烈な余震が収まるのを待った。津波を心配した周辺の住民ら約300人が続々と避難してきた。
 状況を把握しようとしたが、停電でテレビや固定電話、インターネットも使えなかった。携帯電話も通じない。大津波警報が出ていることも知らなかった。震災から約1時間後、津波が家や車をのみこみながら迫ってきた。高台にある学校の周りは津波に囲まれた。
 余震が落ち着くのを待って子どもやお年寄りを校舎に入れた。しかし、連絡はどことも取れなかった。避難者の1人が持っていた無線機で一方的にSOSを呼び掛け続けた。「陸の孤島...」。そんな言葉が箭内校長の頭をよぎった。
 相馬市教委は津波を想定した訓練は行ったことがなかった。磯部小と磯部中が津波で孤立していることが分かったが、学校にいる人々の安否が確認できたのは真夜中だった。
 市教委は今回の震災を教訓に、連絡が取れるよう各校に無線機を配備した。さらに、津波を想定した避難マニュアルの整備を急いでいる。


課題集約し新指針県教委策定へ

■地域住民の視点で

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津波により大きな被害を受けたいわき海星高=4月15日
 県教委は各市町村教委から震災発生時の課題の集約を図り、大規模地震や津波で、これまで想定していなかった避難への対処方法などを盛り込んだ新たな学校防災マニュアルの指針を策定する方針だ。
 学校防災マニュアルは震災時の避難の仕方、安全確保の取り組み、児童・生徒の保護者への引き渡し法などについて各学校が定めるもので、努力義務とされている。平成21年度に県教委が策定例を示し、小中学校の9割以上が設けていた。
 しかし、今回のような大規模な停電、電話の不通は想定していなかった。このため、緊急時に教育委員会や気象庁の警戒情報が必ず各学校に伝わるようにする方法の確立が求められている。
 さらに県教委は、緊急時の避難方法などについて各学校と地域の連携ができていなかったケースもあるとみて、地域や住民と密着した視点でのマニュアル作りや訓練の在り方を検討するとしている。