【共生の功罪9】機能不全に無力感 早期の収束誓う

 3月11日の地震発生から約9時間後。時計の針は12日午前0時に近づいていた。
 県原子力安全対策課長、小山吉弘(59)は自ら車を運転し、真夜中の大熊町に到着した。東京電力福島第一原発から5キロほど離れた国のオフサイトセンター。建物の中は真っ暗だった。非常用電源が失われ、通信回線はほとんどつながらない。原子力災害の前線基地は機能不全に陥っていた。

■危機的状況
 東北新幹線で東京から福島市に戻る途中、白河市付近で激しい揺れに襲われた。わずか1時間後、第一原発の一部のプラントで全交流電源が失われたことを受けた「原子力災害対策特別措置法第一〇条通報」が発令された。部下との携帯電話は辛うじて通じた。福島第一原発が危機的な状況に陥ろうとしていることを知った。
 小山の生家はオフサイトセンターから歩いて5分ほどの場所にある。だが、古里を案じる余裕はなかった。「早く下車させてほしい」。車掌に掛け合った。地震発生から約5時間後の午後8時ごろ、やっと許可が出た。最も近い新白河駅まで線路沿いを約3キロ歩いた。白河市の県南地方振興局で車を借りて大熊町に向かった。
 センターには国の省庁や警察、消防、自衛隊などの関係者が集まっていた。連絡手段として使えた衛星電話は2、3台しかなく、順番待ちだった。
 センターの機能の回復は遅々として進まない。12日午後3時36分、福島第一原発1号機で水素爆発が起きた。過去の訓練は一体何だったのか―。誰もがお手上げ状態だった。

■古里が初任地
 小山は双葉高から東北大理学部に進み、京都大大学院で合成化学を学んだ。昭和54年4月、県職員になった。初任地は大熊町の県原子力センターだった。
 当時、福島第一原発でトラブルが相次いでいた。入庁の数日前には米国スリーマイル島で原発事故が発生した。県は原発の安全を担える職員を育成するため、理系の小山に白羽の矢を立てた。
 31年に及ぶ県職員生活のうち、3分の2に当たる23年を原発関係の部署で過ごした。
 小山は今、県庁脇の県自治会館3階にある県災害対策本部に朝から夜中まで詰めている。事故収束に向けた東京電力の作業確認や、放射性物質測定に携わる。
 「東電と一緒に安全神話の片棒を担いできたんじゃないか」。県には批判が相次ぐ。
 「これまで危険を見逃したり、情報を握りつぶしたということはあり得ない」との自負はある。だが、起きた現実は変わらない。「1日も早い事故収束に取り組むだけ」。60歳の定年を1年半後に控えた自らに言い聞かせる。(文中敬称略)