【「前線基地」の苦悩1】現地到着 手間取る 混乱の中 初動対応

航空自衛隊大滝根山分屯基地に到着した池田氏(中央)=平成23年3月11日午後10時すぎ

 阿武隈山系の静けさに回転翼の音がとどろく。大型輸送ヘリコプター「CH-47」が漆黒の夜空から着陸体勢に入った。
 川内村と田村市にまたがる航空自衛隊大滝根山分屯基地。頂の標高は1、192メートル。周囲は雪に覆われ、ヘリコプターから降りた数人を凍えるような空気が包んだ。平成23年3月11日午後10時13分。東日本大震災が発生してから7時間余りが過ぎていた。
 経済産業副大臣の池田元久(衆院神奈川6区)は時を惜しむように、自衛隊の車に乗り込んだ。目的地は約30キロ先の大熊町にある。オフサイトセンターと呼ばれる原子力災害の対策拠点施設だ。
 大震災と大津波で、東京電力福島第一原子力発電所は危機的な状況を迎えつつあった。池田は政府の原子力災害現地対策本部長を命じられていた。

■重大な使命
 11日午後2時46分。池田は東京・霞が関の経産省10階にある副大臣室にいた。大きな揺れに襲われ、立っているのが難しい。隣室にいた秘書官は机の下に逃げ込んだ。
 東電は「福島第一原発1、2号機で非常用炉心冷却装置による注水ができなくなっている可能性がある」と判断した。同省原子力安全・保安院に「原子力災害対策特措法(原災法)一五条に規定する特定事象が発生した」と報告した。経産省は午後4時45分から第1回緊急災害対策本部を開いた。池田のオフサイトセンター派遣が決まった。
 事故の状況把握、住民の避難、広報、放射線モニタリング、医療...。発電所の敷地外(オフサイト)に置かれた施設(センター)を中心に、国や県、市町村などの関係機関、専門家が一体となって動く。そのトップを務める池田には、わが国で誰も経験したことのない重大な使命が待ち受けていた。

■緊急発進
 池田は作業服や半長靴を秘書に持たせてすぐに出発した。「まさにスクランブル(緊急発進)だった」。保安院審議官の黒木慎一らが同行した。
 だが、一刻も早く現場に駆け付けたいという思いは、すぐに遮られる。既に都内は地震による"帰宅難民"があふれていた。道路は激しく渋滞した。先導予定だったパトカーと合流できない。「ヘリコプターで行かないと無理だと思い、事務次官の松永(和夫)に連絡した」。通常なら霞が関から秋葉原の辺りまでは10分余りしかかからない。だが、この日は2時間を要した。ようやくパトカーの先導を得たものの、遅々として車は進まない。
 池田は「市ケ谷の航空自衛隊基地に到着したのは午後8時半ごろだったのではないか」と記憶をたどる。経産省を出てから、約3時間がたっていた。

■明かり失う
 ヘリコプターを直接、福島第一原発に着陸させることを一時、検討した。だが、夜間に加え、余震が続いた。安全を優先し、大滝根山分屯基地を選んだ。
 池田が乗った自衛隊の車は山道を下り、オフサイトセンターを目指した。道路にひびが入り、家々が傾く。電灯は消え、人の姿は見当たらない。
 センターに到着したのは、間もなく日付が12日に替わろうかというころだった。大震災の発生から約9時間が過ぎていた。
 住民の安全を守る「前線基地」は異常事態に陥っていた。建物から明かりが失われていた。
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 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故は、原子力災害に対する備えを覆した。停電、通信網の遮断、放射性物質の放出...。思いも寄らない事態が次々と襲い掛かった。原発から約5キロ。混乱の中で手探りを続けた対策拠点・オフサイトセンターを追う。(文中敬称略)