【「前線基地」の苦悩2】電源復旧大幅遅れ 暗闇で手探りの作業

昨年3月11日。原子力安全・保安院の職員、横田一磨は大熊町の東京電力福島第一原発の研修棟にいた。福島第一原子力保安検査官事務所長として、四半期に1度開かれる保安検査会議に出席していた。会議の合間に休憩を取っていた時、震度6強の激しい揺れに襲われた。発電所内は騒然となった。
横田は、運転中だった1~3号機が設計通り自動停止したことを知った。安心する間もなく、原子力災害の現地対策本部・オフサイトセンターの開設準備を迫られた。
地震で発電所内の道路などが破損し、車を出せる状況ではなかった。やむを得ず5キロ先のセンターまで歩くことを決意したが、偶然、通り掛かったタクシーに乗り込んだ。車の中で自らに課せられた仕事に思いを巡らす。関係者の招集、テレビ会議システムの準備、県や市町村との連絡...。5カ月前の平成22年10月にオフサイトセンターで訓練が行われ、対応を確認したばかりだった。
タクシーがセンターに到着したのは午後3時半ごろ。横田はすぐに室内灯のスイッチを押した。だが、反応はない。夕闇が迫り、建物の外も中もすぐに暗くなった。センターには外部電源が失われた際に、非常用発電機が動く仕組みが備えられているはずだった。「なぜだ」。暗闇の中で、発電機が動かないもどかしさを誰もが感じていた。
■ポンプ故障
「厄介だが、手は打てそうだ」。センター内の非常用発電機室で、東電社員が懐中電灯を頼りに悪戦苦闘していた。
この社員は、センターの要員として福島第二原発から派遣された。センターに隣接する県原子力センターは非常用電源が動いていた。臨時のオフサイトセンターとなり、駆け付けた国や県、消防などの関係者が作業を始めていた。
県はオフサイトセンターの非常用電源を復旧させようと、いわき市の保守管理会社に連絡を取ろうとしたが、電話がつながらなかった。
社員は午後10時ごろ、誰から頼まれるのでもなく、部下と発電機室に向かった。発電所の運転員経験があり、設備関係には詳しかった。発電機の燃料タンクから重油をくみ上げるポンプが故障していたことが分かり、エンジン内部に空気が入ったとみられた。だが、初めて扱う機械を修理することは簡単ではない。「部下が何回試しても、(発電機が)かからないんだと。それじゃあ、こうしてみようか、というような作業だった」
■続く難題
午後11時ごろに県原子力センターに副知事の内堀雅雄が到着した。県の現地災害対策本部長として政府など各機関と連携し対応を指揮する役目を担っていた。明かりが消えたオフサイトセンターと満天の星空-。そのギャップに戸惑った。「地上は想像を超える天災に見舞われたのに、この星空の美しさは一体何なのか...。どうしても受け入れられない自分がいた」と述懐する。
修理した東電社員によると、オフサイトセンターの発電機の復旧は12日午前一時から2時ごろだったという。「やった、と思った。電気が復旧しなければ、仕事が進まないと思っていた」と振り返る。
関係者が県原子力センターからオフサイトセンターに移動したのは午前3時17分。震災発生から既にほぼ半日が過ぎていた。
電気が復旧し、オフサイトセンターを中心に住民の屋内退避や避難、放射線の測定、被ばく対策などの取り組みが本格的に始まろうとしていた。だが、次の難題が持ち上がった。外部との連絡に欠かせない電話回線が壊滅に近い状態に陥っていた。百数十台の電話が使えなかった。(文中敬称略)