【「全線基地」の苦悩3】電話不通 情報足りず 衛星回線にも不安

政府の原子力災害現地対策本部長、池田元久は、東京にいる経済産業大臣の海江田万里と連絡を取ろうとした。だが、電話はなかなかつながらない。
池田は昨年3月12日午前零時前、政府の現地対策本部が置かれた大熊町のオフサイトセンターに到着した。震災発生から約9時間が過ぎていた。オフサイトセンターは停電し、隣接する県原子力センターの一室で指揮を執り始めた。
県原子力センターは非常用電源設備が動いた。政府、県、警察、消防などの関係者が集まりつつあった。当時、県原子力センターの電話は1階に3つ、2階に1つ備えられていたという。震災発生後、しばらくの間は電話が通じていたが、夜になると次第に通話しにくくなった。
池田は福島第一保安検査官事務所長の横田一磨から報告を受け、その内容を海江田に知らせようとした。生命線の1つである電話が満足に使えず、住民の安全確保に直結する情報を円滑にやりとりできない。誰もが焦りといら立ちを隠せなかった。
■最後の頼み
12日未明にオフサイトセンターの電源が復旧し、対策本部の関係者は県原子力センターから移動した。
建物2階の全体会議スペースに設けられた電話回線は135台分。県内各市町村と結ぶ防災用電話もあったが、12日昼ごろまでに衛星電話6台以外は通話不能に陥った。
最後の頼みの衛星電話にも不安が付きまとった。6台のうち、1台はつながりにくく、車載型2台は屋外の放射線量上昇に伴い、使用が見送られた。さらに1台はテレビ会議システム兼ファクス用で、通話専用は2台だけだった。その2台は、電波が通じやすいよう窓際に置かれた。100人を超える本部要員が、「辛うじて生きていた」電話に殺到した。
池田は当時の状況を説明する。「重要な情報は電話で伝えた。ただ、頻繁には連絡しなくなった。誰かが使っている、という気持ちがあった」
■時間差
テレビ会議兼ファクス用の衛星電話は対策本部の中央付近、全体会議エリアに備え付けられ、経済産業省緊急時対応センター(ERC)と常時、接続していた。一度切断すれば、またつながるかどうか分からなかったからだ。「電話」とはいってもスピーカーとマイクが内蔵され、そこに向かって話す。画面はパソコンぐらいの大きさだった。
原子力安全・保安院の原子力発電検査課長で総括班責任者の山本哲也は、ERCと連絡を取ろうとするたびに苦労した。誰かと話そうと思っても、いちいち相手の名前を言って呼び出してもらわなければならない。画像はモザイクがかかったようで、音声は数秒たってから時間差で聞こえてくる。かつての海外からの中継映像のようだった。「すごく、まどろっこしい感じがした」
ファクスも極めて頼りなかった。テレビ電話と兼用で回線の容量が足りないせいか、送信が終わるまでにかなりの時間がかかった。「連絡網は最低限、確保されてはいたが、正直言って、きつかった」。オフサイトセンターが現地を撤退し、県庁に移動する15日までの5日間、電話が全面復旧することはなかった。
県庁に移転後は、電話の使い勝手は格段に良くなった。だが、通信網の不具合は、住民避難の判断材料の1つである原発周辺の放射線モニタリングにも影響を及ぼしていた。(文中敬称略)