【「前線基地」の苦悩4】線量データ入らず 職員自ら車で測定

 停電、電話の不通...。大熊町にある県原子力センターの所長、板垣繁幸は昨年3月11日から「まさか、まさかの連続」に追い立てられた。
 東京電力福島第一原発事故に対応する政府の現地対策本部・オフサイトセンターで、板垣は放射線班副責任者を務めていた。部下からもたらされた新たな情報には、さらに驚かされた。原子力発電所周辺の環境放射能を常に測定している固定施設・モニタリングポストからデータが受信できなくなっている、という報告だった。
 放射線は目に見えず、臭いもしない。24時間体制でデータを測定しているモニタリングポストから情報が得られないとすれば、事故による放射能の影響をつかむ際に大きな支障を来す。地域住民の安全確保に直結する重大な問題だった。
 データが受信できなければ、職員が自力でカバーするしかない。県は原子力センターに放射線測定の機材を積んだ専用車や、持ち運びが可能な機材を配備していた。板垣の指示を受けた職員は2台の車に分乗し、それぞれ北と南に向けて走りだした。

■常時監視の死角
 県は昭和48年6月、大熊町に原子力対策駐在員事務所を開設し、同年8月から原発周辺の環境放射能測定を始めた。福島第一原発1号機が営業運転を開始してから2年余りが過ぎた時期だった。
 翌年4月、事務所は県原子力センターに組織を改め、モニタリングポストによる放射線の常時監視体制をつくった。
 震災発生時、原発周辺に設置されていたモニタリングポストは大熊、双葉、富岡、楢葉の原発立地4町と、その外側にある浪江、広野両町に、合わせて23カ所あった。測定データはネットワークを通じ、2分ごとに原子力センターに送信される仕組みだった。
 板垣によると、モニタリングポストは震災直後までは通常通り、線量を測り、データをセンターに送っていた。「いつかは覚えていないが、途中からデータが入らなくなった」
 その後の県の調べで、23カ所のうち4カ所は津波で流された。残りの19カ所は停電や電話回線の不通が原因と分かった。
 特に重要なモニタリングポストには一般回線の遮断に備えて衛星回線も加えていた。ただ、自動で衛星回線に切り替わる仕掛けにはなっていなかった。職員がポストまで出掛け、手動で操作する必要があった。県は事故後、手動で操作してみた。だが、地震によるアンテナの不具合なのか、データを送信できなかった。

■複合災害
 板垣の指示を受けた職員は、北は南相馬市、南はいわき市まで主に6号国道沿線を走り、空間放射線量を測定した。
 その結果、原発から北西に当たる双葉町や浪江町方面の線量が高い実態が浮かび上がった。データはオフサイトセンターの衛星回線を通じ、ファクスで国に送られた。後に各機関や専門家の詳細な調査で判明する線量分布と一致する部分があった。
 県地域防災計画の原子力災害対策編には、素早い初動を目的に、浜通りにある市町村などの各機関がモニタリングに協力することが記されている。だが、実際にはどの市町村も地震や津波などの対応に追われ、モニタリングに職員を出す余裕はなかった。そもそも、県の計画には地震、津波、原発事故が同時に発生し、大きな被害をもたらす複合的な原子力災害への備えが手薄だった。
 「モニタリングに当たる人員が確保できれば、もう少し広い範囲で調査できたかもしれない。私が受けてきた訓練は安全神話が前提で、(今回のような事故は)ありえないんだ、という教育を受けてきた。まさかモニタリングポストがここまで被害を受けるとは思わなかった」。板垣をはじめ放射線測定に関わってきた県や市町村の担当者は悔しさをにじませる。(文中敬称略)