【「前線基地」の苦悩5】県の避難誘導「限界」 情報、連絡手段乏しく

避難指示に緊張が走る富岡町災害対策本部。このころオフサイトセンターは市町村との連絡が取れにくくなっていた=昨年3月12日午前6時すぎ、学びの森

 南相馬市の県合同庁舎にある県相双地方振興局に、地震や津波の甚大な被害状況が入りだした。昨年3月11日午後9時ごろ。震災発生から約6時間が過ぎていた。
 「大熊町のオフサイトセンターに行って、住民安全班の責任者をやってくれないか」。県民環境部副部長の高田義宏は上司から指示を受けた。
 原子力防災の拠点であるオフサイトセンターで、住民安全班の責任者を務めるのは振興局長のはずだった。あらかじめ作成されたオフサイトセンターの参集者名簿に、高田が務めている職名はない。振興局長の武義弘は局内に設けた相双地方全体の災害対策本部で陣頭指揮を執っている。局を離れられる状況ではなかった。
 高田は原子力関係の資料だけを持って車に乗り込んだ。大熊町までは約30キロ。6号国道を南下すれば、通常は40分ほどで着く。
 道路は所々で大きな被害を受けていた。高田の記憶によると、到着は午後10時40分か50分ごろ。2時間近くかかっていた。
 「何だ、これは」。センター内は真っ暗だった。非常用電源を修理中の人に声を掛けた。顔は見えなかったが、隣の県原子力センターに関係者が集まっている、と教えられた。

■順番待ち
 住民安全班の大きな役割は、住民の避難先を検討し、安全に誘導することだ。だが、オフサイトセンターは12日未明に電源が復旧したものの、電話はほぼ壊滅状態だった。検討するための情報そのものが入ってこない。
 原発から約5キロの場所にいる高田が悪戦苦闘する一方、どこでどのように現状をつかんでいるのか、約200キロ離れた東京の首相官邸からは避難指示が相次いで出され、その範囲が次第に拡大した。「何をやってもうまくいかなかった」。高田は、憔悴(しょうすい)していた当時の自分を思い出す。
 高田を悩ませた原因の一つは、放射性物質の拡散予測システム「SPEEDI」の情報が伝わってこなかったことだ。県原子力センターには昭和61年度に導入され、緊急時に汚染濃度分布の予測計算などを進める仕組みだ。そのデータが入らず、どの地域の住民を、どの方角に避難させればいいのかを判断する有効な材料が手元になかった。
 避難先の確保もおぼつかなかった。県は万が一に備え、原発から30キロ圏内にある学校の体育館や公民館などをあらかじめ選んでいた。しかし、オフサイトセンターで何とか使えた衛星電話2台は、順番待ちが続き、一つの用事を済ませるのに3、4時間もかかることさえあった。用意されていた避難先リストは生かせなかった。

■逃げ遅れに対応
 結局、震災直後に住民安全班がこなした業務は、市町村の避難状況の情報収集や、国が手配した避難用バスの割り振りなどにとどまった。オフサイトセンターと市町村の避難先とは連絡が取れにくくなり、県庁から職員が避難先に直接、出向き、情報を得るケースさえあった。
 避難対象地域にいた住民の大半が地域の外に避難した後は、病院や福祉施設にいる患者、入所者の救助が主な仕事になった。取り残された住民がセンターを訪れることもあった。高田らは、そのたびに、それぞれの市町村の避難先を伝えた。「行きたくても車のガソリンがない」という住民は警察車両で送り届けてもらった。その数はオフサイトセンターが県庁に移動する15日までに、20~30人に上った。
 「住民の皆さんや市町村に情報を提供するはずなのに、逆に情報をもらうばかりだった。できる範囲で精いっぱいやったのだが...」。住民のために、思うようには役に立てなかった現実を前に、高田は悔恨の言葉を口にした。(文中敬称略)