【第1部 安心の尺度】(3)神様が与えてくれた命 試練…出産を決断

池田美智子(39)は平成二十三年七月十一日、避難先の栃木県那須塩原市から千葉市の放射線医学総合研究所(放医研)に向かっていた。東京電力福島第一原発事故当時、双葉郡などにいた五十二人に届いた内部被ばく検査依頼。放医研には双葉町から十二人、他の四十人は富岡町や川内村などから来ていたことを覚えている。
特別養護老人ホーム「せんだん」の仲間も一緒だった。「どんな検査をするのか、どんな結果がでるのか」。待合室で不安がよぎった。持参した尿を提出し、検査室でホールボディーカウンターに横たわって内部被ばくを測定したり、甲状腺を検査したりした。
約二カ月後の九月九日、郡山市のビッグパレットふくしまで検査結果の説明があった。「尿から放射性セシウムが出たのは二人」。放医研の担当者が切り出した。
検出されたのは美智子と、もう一人の男性だけだった。男性は八十代くらいだったと記憶している。その男性が声を掛けてきた。「俺はもう年だからいいが、あんたは気をつけないと駄目だ」
◇ ◇
長男を生んでから十年間、待ち望んでいた第二子。男性の言葉を聞き、諦めに近い気持ちが生まれていた。
検査結果の説明からちょうど一カ月後の十月九日、次男を妊娠していることが分かった。「なぜ、今なのか」。体内から放射性セシウムが検出された直後だっただけに頭が混乱した。
「妊娠が分かったら『おめでとう』と言うのが普通。でも、その時は『大丈夫なの』が第一声だった」。美智子から妊娠の知らせを聞いた母・岩本和子(62)は当時を思い返す。
だが、美智子は決断する。「どんな子どもが生まれてきても、神様がわたしたちなら乗り越えられると分かっていて与えてくれた試練」。出産に反対する家族はいなかった。
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出産場所は、新生児集中治療室(NICU)を備える那須塩原市の国際医療福祉大学病院を選んだ。「おなかの子どもに何かあったらすぐに対応できる」。出産の環境を整えてあげることが母親のせめてもの務めだと思った。
おなかの子どもの様子を見ることができる超音波検査の画像に食い入るように見入った。これから生まれてこようとする小さな命が映っていた。元気そうに動く姿にほっとした。
「万が一、生まれてくる子どもに何かあった場合、放射線の影響を立証できるのか」。医師に詰め寄ったことがあった。診察した医師・厚木右介(33)は「原発事故と関係がないお産でも何らかの障害を持って生まれてくる子どもがいる。因果関係を証明するのは難しい」と答えた。美智子は体から力が抜けるのを感じていた。(文中敬称略)