【第1部 安心の尺度】(4)神様が与えてくれた命 生まれてありがとう

池田美智子(39)は平成二十三年十一月末、避難先の栃木県那須塩原市にある国際医療福祉大学病院に緊急入院した。心労がたたってか、切迫流産の恐れがあった。妊娠していることが分かって約一カ月半後のことだった。
「(子どもは)流産するかもしれない」。診察した医師・厚木右介(33)は美智子に告げた。
「神様から授かった子ども。何としても流産したくない」。美智子はベッドから一歩も動かず、安静に努めた。病室の天井を眺めながら、ふと涙があふれてきた。「やっぱり生まれてくることができない子どもだったのかも」
そんな美智子の心配をよそにおなかの子は順調に育った。流産の危機を脱し、十二月上旬、退院した。約五カ月後の二十四年五月二十七日、病院の分娩(ぶんべん)室で無事、次男芳稀(よしき)が元気な産声を上げた。
「大きな声で泣いてくれる。これ以上、何も望むことはない」。出産には夫幸司(38)、長男幸矢(11)も立ち会った。安産だった。芳稀を大喜びで抱きかかえる夫と、目を輝かせながらのぞき込む長男の姿に、美智子は産んで本当に良かったと思った。
◇ ◇
美智子の母・岩本和子(62)は病床で娘の出産を知った。五月七日、くも膜下出血で七時間に及ぶ緊急手術をした。生存率は50%と宣告されていた。奇跡的な回復を見せたが、まだ入院中だった。
五月二十七日、美智子の妹の岩本千夏(37)が「生まれたよ」と病室に駆け込んできた。
「ちゃんと生まれてきたか。どんな子どもが生まれたか様子を見に行ってきて」
千夏は携帯電話で写真を撮ってきた。元気そうな姿に安心したが、悪いところはないか少し不安だった。美智子の子、そして孫…。放射線の影響が本当に現れないのか考えれば考えるほど心配の種が尽きなかった。
東京電力の医療費の賠償は、原発事故との因果関係がなければ、二十三年十一月末までしか認められていなかった。和子のくも膜下出血は原発事故による避難生活との因果関係が「不明」とされ、賠償の対象にはならなかった。「将来、放射線の影響で病気になるケースがあっても、保障されないのではないか」。今の自分と孫の将来とを重ね合わせていた。
◇ ◇
出産から約一週間が過ぎ、美智子は避難先の栃木県那須塩原市のアパートに芳稀とともに戻った。「かわいいけど、弟につきっきりになる」。幸矢は少し不満を漏らしながらも、美智子が忙しいときは抱いてあやす。「すっかりお兄ちゃんになったなあ」。美智子は長男を頼もしく感じることがある。
「生まれてきてくれてありがとう」。放射線の影響におびえながらの出産だったが、ようやく幸せをかみしめることができた。「元気に育ってほしい。一生、心配は尽きないと思うけど…」
(文中敬称略)