【第1部 安心の尺度】(6)遅れた避難 「拡散」知らず雪遊び


「いただきます」
飯舘村比曽行政区から福島市飯野町の仮設住宅に避難する主婦・菅野明美(51)の家で夕食が始まった。
「みそ汁は体にいいから食べてね」。建設会社に勤務する夫広寿(50)の隣でご飯を頬張る愛莉(あいり)=(9つ)=に残さないよう念を押した。
菅野家では、一日一回は愛莉にみそ汁を飲ませている。醗酵食品は免疫力を高め、内部被ばくを防ぐのに効果があると聞いたからだ。
娘の食事に細心の注意を払う明美は時々、後悔することがあった。「もっと早く避難していれば…」
◇ ◇
「パパ、雪合戦しよう」
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が起きた平成二十三年三月十一日の直後、愛莉と広寿は飯舘村比曽行政区の自宅の庭で雪遊びに興じていた。
愛莉は、震災で仕事が休みになった広寿が自宅にいてうれしかった。停電していた以外は普段の生活とあまり変わらなかった。近くの沢から引き入れている水も当たり前に飲んでいた。
その頃、東京電力福島第一原発では、既に1号機の建屋が水素爆発で吹き飛び、十五日までに3号機と2号機、4号機でも水素爆発が起きていた。浜通りは未曽有の混乱に陥っていた。
明美たち一家が状況を知ったのは、停電が復旧した十六日ごろだった。第一原発から高濃度の放射能が漏れ、屋内退避指示が三十キロ圏内に拡大されたとテレビのニュースが伝えていた。
「まさか、この辺りまでは及ばないだろう」。第一原発から飯舘村の自宅までは直線距離で三十五キロほど離れていた。明美には、まだ危機感はなかった。放射性物質が上空に放出され、北西の村の方角に向かっていたとは想像もしなかった。
◇ ◇
原発事故から七日後の三月十八日。飯舘村長・菅野典雄(66)は希望者の避難を決断した。三日前の十五日午後六時ごろには、村役場周辺で毎時四四・七マイクロシーベルトの空間放射線量が計測されていた。
明美たち一家三人も三月二十日に避難を開始した。原発事故の発生から九日が過ぎていた。二十一日には村の水道水から高濃度の放射性物質が検出され、摂取制限が発令された。
避難先は川俣町羽田地区にある明美の実家に決めた。二カ月ほど過ごし、避難先として村が確保した大玉村にあるゴルフ場のホテルに移った。村を出て約四カ月後の七月二十三日、福島市飯野町にある今の仮設住宅に落ち着いた。
「一、二年もすれば故郷に帰り、元の生活に戻れるはず」。仮設住宅への入居が決まった時、明美はさほど深刻には受け止めていなかった。
ただ、一つだけ気掛かりなことがあった。「避難が遅れたことで、愛莉が放射線の影響を受けたのではないか」。新たな避難先での暮らしを前に不安は現実となった。(文中敬称略)