【第1部 安心の尺度】(7)遅れた避難 誰を信じればいいの

菅野明美(51)が大玉村にあるゴルフ場のホテルに避難していた平成二十三年六月、飯舘村から内部被ばくを調べるホールボディーカウンター検査の案内が届いた。長女の愛莉(あいり)=(9つ)=が対象だった。検査場所は茨城県東海村の日本原子力研究開発機構と書かれていた。
七月二十一日、明美は愛莉を連れ、県が用意したバスで福島市の県庁前から東海村に向かった。愛莉はおとなしく座り、車窓から景色を眺めていた。どこに連れて行かれるのか気掛かりそうだった。
「きっと大丈夫。きっちり検査してもらおう」。明美は、娘が放射線の影響を受けたのではないかという不安を取り除ける機会だと前向きに捉えていた。
◇ ◇
同じ日に検査を受けたのは飯舘村の四歳以上の子どもで、百人ほどだった。機構に到着すると順々に検査が始まり、しばらくして娘の順番になった。大きな機械の前に立ち、数分で終了した。正午前だった。
検査室から出ようとすると、検査機を操作していた男性が近寄ってきた。「残ってください」。明美の心臓の鼓動が急に高鳴った。自分たちより前に検査を受けていた子どもたちは皆、検査室を出て行った。呼び止められたのは明美親子だけだった。
男性は測定結果を見詰めながら、愛莉の体内から微量の放射性セシウムが検出されたことを告げた。
「大丈夫なのですか」。明美は何度も同じ質問を繰り返した。
検査を担当した男性は「健康には影響のない数値です」と心配する明美をなだめた。だが、いくら「健康に影響がない」と説明されても、納得できなかった。「なぜ」「どうして」…。頭が混乱した。
「原発事故の直後に外で雪遊びをさせてしまったからだ」。明美は激しい後悔に襲われた。検査後に弁当が配られたが、食べる気分にはなれなかった。
◇ ◇
結婚が遅かった明美にとって、愛莉は結婚二年目で生まれた待望の子ども。高齢出産のため早産となったが、愛娘の誕生はこの上ない喜びだった。
皆に愛されるよう願いを込めて愛莉と名付けた。人見知りするが、母親の手伝いを進んでする素直で優しい子どもに育っている。娘の成長と明るい将来を思い描くのが明美にとっての生きがいだった。度重なる避難が続いた生活の中でも、愛莉は東京電力福島第一原発事故前と変わらず、健やかに成長していた。
愛莉から検出されたセシウム137の半減期は三十年。そのころには四十歳を過ぎている。「本当に健康に悪影響はないのか」。放射線の影響について、専門家と呼ばれる人たちが、テレビや本でさまざまなことを言っていた。「誰を信じればいいの」。誰も明確な答えを示さない。不安は日増しに大きくなっていった。
原発事故後も村にとどまり、避難が遅れたことを悔やむ日々が続いた。「せめてこの子のために、できる限りのことをしてあげよう」(文中敬称略)