【第1部 安心の尺度】(9)心の差 母子避難苦悩の決断

山形県米沢市。最深積雪が一メートル前後になる豪雪地帯に、福島市野田町から自主避難している整体師・松井国彦(45)の民間の借り上げ住宅がある。
一室に、にこやかにほほ笑む仏様と「悟り」の文字が書かれた絵手紙が飾られていた。平成二十三年十月に妻知美(43)のことを思って描いた。「懐かしいな。まだ一年ちょっと前のことなのに、だいぶ前のことに思える」。国彦はつぶやいた。
東京電力福島第一原発事故後、放射線の不安から県外への自主避難を望む知美と意見が合わず、気持ちが擦れ違うようになった。「妻と折り合うことができなければ家庭は崩壊していた」。知美に歩み寄り、母子を避難させることを決断するまでに半年かかった。
<しあわせに生きるって あなたとわたしの 心の差を取るってことなのかなぁ>
苦悩の末に出した答えを素直につづった。
だが、その時は自分も避難しようとは考えていなかった。
◇ ◇
二十三年三月十五日。福島第一原発が制御不能に陥り、当時の首相・菅直人が福島第一原発から半径二十~三十キロ圏内の住民に屋内退避を指示した。国彦と知美の間に溝ができ始まったのはこのころだった。
原発から約六十キロ離れた福島市でも空間放射線量は急上昇し、十五日午後七時には県北保健福祉事務所で通常の約四百八十倍に当たる毎時二三・八マイクロシーベルトが計測されていた。米政府は翌十六日に在日米国人に対し、原発から半径五十マイル(約八十キロ)圏からの退避を勧告した。知美の不安と焦りをさらにかき立てた。
「福島を離れるべきではないか。子どもに悪影響が出たら絶対に後悔する」。知美は、国彦の生まれ故郷の静岡県に避難することを打診した。しかし、国彦は首を縦に振らなかった。「まだ大丈夫だろう」と思っていた。
◇ ◇
三月二十一日。春分の日だった。国彦は福島市で開かれた県放射線健康リスク管理アドバイザーの講演を聴いて、自分の考えに自信を深めて帰ってきた。
「胸部レントゲンは五〇マイクロシーベルト。一〇〇マイクロシーベルト以下なら外で散歩しても大丈夫だって。もし体内に入っても希釈されるらしいよ」。メモしてきた内容を知美に伝えた。この日の市内は毎時七・八マイクロシーベルトほどあった。
講演したのは長崎大大学院医歯薬学総合研究科長の山下俊一(現福島医大副学長)だった。「世界には毎時一~五マイクロシーベルトを常に浴びている地域がある。がんになるリスクは他の地域と変わらない」と言っていたことも教えた。
国彦はこの日、整体院「縁」の月刊情報誌の三月特別号にこう記した。「決心しました。避難せず、この街福島とともに一日も早い復興のお手伝いができるよう家族とともにがんばって生きたいと思います」
だが、知美は国彦との放射線に対する考え方に温度差を感じていた。「子どもだけでも避難させたい」。五人の子どものうち、末っ子の三女絵里は二歳になったばかりだった。(文中敬称略)