【第1部 安心の尺度】(10)心の差 「放射線遠ざけたい」


平成二十三年三月末。福島市野田町の整体師・松井国彦(45)は、東京電力福島第一原発事故後に県外に自主避難していった知人らを思い、絵手紙を描いた。
<遠くはなれていても思いはひとつだから どんなことがあっても力いっぱい輝ける日をこの街で迎えたい>
妻知美(43)は福島で暮らす道を選んだ国彦との距離が広がるのを感じていた。
四月になり、子どもたちは学校や保育所に通い始めた。校舎や校庭の除染はまだ始まっていなかった。
「ただの雨が放射性物質を含んだ雨水になり、心配しなくて良かったことを心配しなければいけなくなった」。知美は天候が崩れると、「子どもたちに傘を持たせてやればよかった」と悔やむようになった。いつの間にか子どもたちに心から「行ってらっしゃい」を言えなくなっていた。
国彦が考えるように家族みんなで福島に残るべきか、それとも、一時的にでも子どもたちを避難させるべきか-。布団に入ると、夜が長かった。
◇ ◇
四月末、市民団体が中学三年の長男結大の通っていた岳陽中で空間放射線量を測った。今でこそ、毎時〇・三マイクロシーベルト程度に下がったが、当時は校舎そばの側溝で毎時四〇マイクロシーベルト以上あった。
知美は、除染が終わっていないのに屋外活動が始まり、教育現場への不信感を抱いた。「屋外活動をさせて大丈夫なのか」。保護者数人で校長の根本真(60)に掛け合った。「そんなに気にするなら違うところ(学校)もある」と言われた。
根本は「市教委の方針に従って屋外活動を再開させた。ほかの学校もそうだった」と当時を振り返る。
だが、この時、知美の腹は決まった。「もう福島では子どもを育てられない」
夏休みに入った八月。知美は避難先を探しに山形県米沢市に向かった。一三号国道を走り、県境の栗子峠を越えると、空間放射線量はうそのように下がった。
子どもたちの同級生や知人も先に避難してきていた。「ここなら」と思った。
しばらくして、米沢市御廟に二階建てで、六部屋ある物件が見つかった。子ども五人を育てるには申し分なかった。家賃は月六万五千円だったが、不動産屋の計らいで山形県の借り上げ住宅制度の範囲内に収まる六万円にまけてもらった。
このころ、文部科学省は校庭の放射線量の目安を毎時一マイクロシーベルトと厳しくし、屋外活動を制限する毎時三・八マイクロシーベルトの基準は廃止した。「これまでの基準は一体、何だったのか」。国彦が抱いていた「安全神話」も消えうせていた。
◇ ◇
十月三日。知美は長女歩未=当時(11)=、次男新=同(9つ)=、次女里花=同(5つ)=、三女絵里=同(2つ)=の子ども四人を連れて福島市から約四十キロ離れた米沢市に移った。
「とにかく子どもたちを放射線から遠ざけたい」。その一心だった。知美は全身にじんましんが出るなど心も体もぼろぼろだった。
ただ、後ろ髪を引かれる思いもあった。「わたしたちだけで避難してきて良かったのか」(文中敬称略)