【第1部 安心の尺度】(11)心の差 二重生活で心身疲弊

平成二十三年十月。妻知美(43)と子ども四人を山形県米沢市に自主避難させた福島市野田町の整体師・松井国彦(45)は、整体院兼自宅で一人もがいていた。
高校受験を控えた中学三年生の長男結大と知美の父・長谷川益雄(76)との三人暮らしで寂しくはなかったが、仕事の傍ら炊事や家事を済ませなければならなかった。負担は多くなった。
妻のアドバイスを受けて食材を買い、煮物や野菜炒めなど「男やもめのまかない飯」を作った。二人は文句も言わずに食べてくれた。だが、不安は膨らむばかりだった。「この暮らしをいつまで続ければいいのだろうか」
結大が高校に上がれば、弁当を持たせなければならない。「毎日作れるのだろうか」。結大は、県内の高校に進むべきか、母親や妹、弟が暮らす米沢に行くべきか二者択一を迫られ、いら立つこともあった。
<泣きもした 怒りもした 怠けたくもなった そんな自分の弱さを抱きしめたくもなった>
国彦は男三人暮らしの心境を絵手紙にした。知美の存在の大きさと自分の小ささをしみじみと感じ、文面に小さなアリを添えた。
◇ ◇
米沢に避難した知美も苦しんでいた。自律神経のバランスを崩し、体中にじんましんが出た。
米沢の冬もこたえた。雪の多さ、重さ、堅さに面食らった。一日中氷点下となる真冬日も多く、水回りが何度か壊れた。借り上げ住宅の屋根に積もった雪が一メートルほどになると、雪下ろしをしなければならなかった。
「こんな時にお父さんがいてくれたらな」
国彦を頼りに思うことが次第に多くなっていた。
米沢の私立幼稚園に預けた三女絵里=当時(2つ)=の保育費も家計を圧迫していた。延長保育を含めた月四万円。「精神的にも肉体的にも経済的にもぎりぎりだった」。福島と米沢の二重生活が国彦の肩に雪のように重くのしかかった。
◇ ◇
十二月末、結大は中学卒業後、米沢の高校に進学する道を選んだ。家族と何度も相談した上での決断だった。
長男の選択をきっかけに国彦は、借り上げ住宅の一階に整体院「縁」の米沢分院を開業した。米沢で日、月、金曜日の三日開院し、残りの四日は福島の整体院を開けた。
長男と益雄との三人暮らしに変わりはなかったが、分院を構えたことで妻と子どものそばにいる時間は増えた。ただ、片道約四十キロの往復は楽ではなかった。
知美も同じだった。福島で開院する週四日、国彦を手伝うため、午前八時に米沢を出て福島に向かう。午後五時には福島を出て、米沢の幼稚園に預けた三女を引き取り、夕飯の支度をする。「体力もガソリン代も大変だったが、家族の幸せを思うと頑張れた」
往復暮らしに小さな幸せを見いだした国彦も知美も、車中でぼんやりと考えることがあった。「そもそも何でこんな綱渡りの生活をしているんだろうか」
(文中敬称略)