【第1部 安心の尺度】(12)心の差 県境越え見えぬ将来

福島と米沢を結ぶ栗子峠。松井家の二重生活の終わりは見えない
福島と米沢を結ぶ栗子峠。松井家の二重生活の終わりは見えない

 福島市野田町と山形県米沢市で整体院「縁」を営む松井国彦(45)は、福島の常連から「米沢に行ってしまうのか」と聞かれ、返答に窮したことがあった。

 言外に「米沢で暮らし始めれば福島には戻ってこないのではないか」との意味を感じたからだ。「これまで通り週四日は福島、残り三日は米沢ですから」。そう答えるのが精いっぱいだった。

 平成二十四年四月、長男結大が米沢市の高校に進学することになった。国彦と結大は生活の拠点を米沢に移した。二十三年十月から半年間続いた、長男と知美の父・長谷川益雄(76)との三人暮らしは終わった。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から一年一カ月がたとうとしていた。

 米沢分院を開ける週三回は七人家族が一つ屋根の下にそろう。国彦のつかの間の幸せだ。残りの週四日は福島で仕事しながら、残してきた益雄の面倒を見るようになった。

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 福島の整体院は知美の実家を改装し、平成十五年に始まった。夫婦は福島の四季に合わせた暮らしが好きだった。ニンジンやダイコンなどの野菜は皮をきんぴらにし、米ぬかはゴマやシソと混ぜ合わせて特製ふりかけを作った。みそも自家製だった。益雄が趣味で栽培した白菜やブロッコリー、ダイコンがうまかった。

 知美は五人目の三女絵里(3つ)を実家で家族に囲まれて分娩した。自然の恵みを大事にして生きてきただけに、原発事故で豊かな大地が汚染され、生活の根幹が揺らいだ。「食品から放射性物質が検出されて食生活が崩れたことも自主避難を決めた大きな要因だった」。知美は振り返る。

 知美は、生まれ育った福島が今でも大好きだ。昨年の大みそかは家族そろって福島で過ごした。放射線の不安が消えたら、いつか戻りたいと考えている。「でも、それがいつなのかが分からない。判断材料が今のところ集まっていない」

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 福島県からの避難者約三千人が暮らす米沢の生活にも慣れてきた。福島の整体院の常連だった避難者が変わらない信頼を寄せて通ってくれる。米沢の客も口コミで増えている。

 国彦は「避難者という気持ちをいつか断ち切らないと疲れてしまう」と思うようになってきた。しかし、「福島と米沢の間で心と体は行ったり来たりしているだけ」で定まらない。

 自主避難者の現実は厳しい。夫婦の前には山形県の借り上げ住宅補助の期限である「最長三年」が壁になっている。家賃補助がなくなれば、「綱渡りの避難生活」はたちまち厳しくなる。

 松井家の「最長三年」は二十六年十月。長男結大は高校三年になる。長女歩未は中学三年、次男新は中学一年、次女里花は小学三年。末っ子の三女絵里はまだ幼稚園だ。

 「その時、どうするんだろうね」。国彦と知美は、福島と米沢を分かつ栗子峠を行き来しながら、どちらに軸足を置くべきか、まだ結論を出せないでいる。福島に残った益雄のことも気掛かりだ。(文中敬称略)