【第1部 安心の尺度】(15)子育ての溝 県外生活先は見えず

長女すずにメールをする潤子。まな娘を気遣う文面がつづられる
長女すずにメールをする潤子。まな娘を気遣う文面がつづられる

 昨年三月中旬、磯貝潤子(38)は郡山市から新潟市に自主避難した。郡山で仕事を持つ夫を残し、長女すず(12)、次女はな(11)を連れて三人で来た。

 初めての地に不安はあった。わずかでも放射線におびえながら過ごす日々はそれ以上に嫌になっていた。

 3DKのアパートを借りた。来てすぐに近くの河川敷でピクニックをした。肌寒い時期だったが、不安を感じずに屋外で弁当を広げ、娘たちと食事ができるという事実が幸せだった。

 「自主避難するかどうか私も迷った。残った人が決して間違っているわけではない。でも、自分は放射線と共存できないと思った」

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 自主避難する前に、郡山市の知人らと放射線や現在の東京電力福島第一原発の危険性について話し合ったことがあった。自主避難を選んだ人、そのまま住むことを選んだ人-。リスクに対する考えは人それぞれだということを実感した。

 月に一回程度、郡山に戻る。知人にはなるべく会わないようにして過ごす。自主避難していることに後ろめたさを感じることもある。

 新潟市に戻り、避難者交流施設「ふりっぷはうす」で同じ境遇の自主避難者と触れ合う時間が安らぎの時だ。「ここがなかったら自分は孤独だったかもしれない」

 帰郷する際は、子どもに念のためにマスクを着けさせる。「郡山にいる子はマスクしなくていいの、ママ」。そう聞かれると何とも言えない気持ちになる。

 六年生の長女がいた郡山の学校では、予定通りプールの授業を再開した。「みんなで入りたかったな」。娘の言葉を聞くとつらい気持ちが押し寄せる。今春に控える卒業式も古里の学校で迎えさせてあげたかった。転校させて申し訳ないという思いが頭をよぎる。

 だが、「子どもは自分で自分の身を守れない。娘を守れるのは私だけだ」と自分に言い聞かせる。

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 インターネットのサイトで「自主避難できる人たちは富裕層だ」という書き込みを見た。自主避難は東電から十分な賠償金も出ず、夫との二重生活で光熱費や食費を切り詰めている現状が、まったく伝わっていないことにショックを受けた。夫と離れて暮らす今、何かあった時に娘を守れるよう、仕事に就くことも控えている。娘には携帯電話を持たせた。生活は明らかに苦しくなった。放射線を気にせずに暮らせることだけが心のよりどころだ。

 帰還する基準は毎時〇・一マイクロシーベルト以下と考えているが、自宅敷地内の空間放射線量は高い所で毎時七~八マイクロシーベルトある。しかし、行政が自宅の除染に乗り出してくれる見通しは今のところない。潤子は、思うような除染が進んでいない現状を見ると、帰りたくても帰れないと思ってしまう。

 「原発事故前と同じ生活に戻りたいと思う気持ちは、自主避難者も残っている人も同じはず」。みんなが再び故郷で暮らせる日を願いながら、先の見えない避難生活を続けている。

(文中敬称略)